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2017年4月28日 (金)

東松島市野蒜小学校での災害に関する仙台高裁の判決から思うこと

 4月27日に仙台高裁で出された,東日本大震災時の宮城県東松島市野蒜小学校に関係する人的被害についての判決文(要旨)を入手する機会を得たので,一読しての印象を書き留めておきたい.
 
 本ブログでは繰り返し書いていることだが,筆者は災害情報に関する研究者ではあるが,裁判や法律に関する専門的知見は持たず,災害訴訟について体系的な知識も持ち合わせない.あくまでも災害に関する研究者としての感想であることをお断りしておきたい.
 
●訴訟の概要
 本件は,
  1. 宮城県東松島市立野蒜小学校体育館に避難して結果的に津波により亡くなった付近の住民の方(2人,以下公開されている一審の判決文に従いD,Eとする)
  2. 同小学校の児童で,下校後いったん同小学校に避難し,後に同級生の保護者に引き渡されて帰宅し,自宅で津波により亡くなったとみられる児童1人(以下同F)
のそれぞれの遺族が,同小学校を管理する東松島市を被告として行った訴訟である.一審の仙台地方裁判所は,DとEに関しては原告の訴えを棄却,Fについては東松島市側の責任を認める判決を出している.DまたはEの遺族(どちらか確認できていない)および東松島市が控訴し,二審の仙台高等裁判所は,いずれの控訴も棄却し,一審判決が支持された.
 基本的には一審通り,部分的には一審より踏み込んで,より厳しい判決となったと感じている.
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●野蒜小学校での被害(D,E)について
 一審の判決文からはまず,DとE,Fについて小学校側が,津波により犠牲となり得ることを事前に予見できたかどうか,という点が主な争点の一つとなったと読み取れる.
 
 DとEが避難した野蒜小学校は,震災前に公表されていた津波浸水予測図では,浸水想定区域外にあり,津波の際の避難場所ともなっていた.一審判決は地震発生後の出された津波関係の情報などを最大限入手できたとしても,同小学校に津波が到達することを具体的に予見できたとは言えないと判断している.二審判決はこれをそのまま認めているようである.
 
 一審判決は,校内のテレビ・ラジオが停電で使用できなかったとしても,カーラジオ,防災無線,携帯のインターネット,ワンセグ等で情報収集は可能だったと判断しており,二審判決もこれを認めたようである.地震直後の混乱した「避難所」管理に当たった小学校教職員の姿を考えるといささか現実的でない情報入手の可能性を認めていることに違和感があるが,同小学校に人的被害をもたらすような規模の津波が到達することを具体的に予見できたわけではないとの判断は,共感できる.
 
●学校に避難した住民に対する学校管理者側の義務について
 あるいは筆者の誤読かもしれないが,二審判決には一審では明記されていなかった,学校に避難した住民に対する学校管理者側の義務についての記載があったように思われる.
 
 二審判決は,「避難した住民に対する応急の救護に協力する責務を負っていた」とした上で,住民は「自己の責任において自ら適切な避難行動をとり得る」とし,「学校施設内に児童らが存する場合においては,児童らに対する安全確保義務に加えて,当該施設の管理者の地位にあることから当然に避難者らを誘導する義務まで負っていたと解することは相当でない」と明記している.
 
 学校が避難所であるからといって,そこに避難した住民の被害に対する,学校管理者側の結果責任は限定的であると読み取れ,これは管理者側にとって現実的な示唆となるように思われる.
 
●いわゆる「児童引き渡し」の判断について
 一方Fについては,自宅は津波浸水想定区域外にあったと見なせるが,帰宅途中には津波浸水想定区域内を必ず通過する位置関係にあったこと,帰宅しても保護者が在宅するかは不明だったこと,Fが9歳の子どもだったことを考えると,無事帰宅したとしても帰宅後に津波浸水想定区域内に移動するといったこともあり得たことなどから,Fが津波に見舞われる可能性は予見可能で,小学校側の判断は過失が認められると一審は判断した.二審判決もほぼこれを認めたようである.
 
 しかし,この判断に従えば,小学校側は児童の自宅位置ばかりでなく,帰宅経路上における災害の危険性を,全教職員が完全に把握し,かつ事態に応じて予測もしなければならないということになるのではなかろうか.
 
 また一審では「(学校側が)予見すべき結果は,本件津波がFの自宅まで到達することではなく,Fが災害時児童引き取り責任者に確実に引き渡されてその安全が確保されるまでに本件津波に巻き込まれてその生命または身体に危険が及ぶことで足りる」としていた.一方二審では「予見すべき対象は大規模災害時に発生しうる様々な危難に遭うことで足り,本件津波に巻き込まれて死亡することまで具体的に予見する必要はない」としており,一審よりさらに予見すべきことを広く認めたように思われる.
 
 無論,こうした予見ができるに越したことはなく,最善は尽くさねばならない.しかし,2011年当時の平均的な日本の学校現場において,あるいは現代においても,このような予見ができることが「当然」であり,できなければ過失であるという考え方は,筆者には納得できない.
 
 今は津波のことばかりが注目されているが,ありうる現象としては,洪水,土砂災害,火山活動など,様々なものがある.それらすべてについて,全学校が,全児童生徒について把握,予見することが現実に可能なのだろうか.
 
 なおFが引き渡されたのは「災害時児童引取責任者」ではないが,Fの同級生の保護者であった.一審は「災害時児童引取責任者」ではない者に引き渡したこと自体を完全に否定したわけでく,引き渡すに当たり「児童の安全が確認できない限り(牛山注:災害時児童引取責任者以外の者に)引き渡してはならないという注意義務に違反した」,すなわち危険が予見できたはずだから,この者に引き渡すべきではなかった,という判断をしているように読み取れた.二審もほぼ同様の判断と読み取れる.
 
 しかし,予見可能性の有無にかかわらず,災害時に,同級生の保護者から児童を引き取って帰宅させる旨の申し出を受けて,それを拒否しなかったことを過失と言うべきなのだろうか.さらに酷なことを言えば,津波浸水想定区域の情報や,地震発生後の津波に関する情報は,学校関係者だけに限定公開されていたわけではなく,国民誰もが知りうる情報だった.その状況下で,小学校側に一方的な過失があると言えるのだろうか,という思いも生じうる.
 
 筆者は小学校側ではない誰かの責任を問うべきだと思っているのではない.このように,誰かの「過失」を問うこと自体が,今後の災害時の対応を考える上で,本当に社会的に対応可能なのか,という懸念を持っている.
 
●災害時の管理者側の責任を強く追及することに対する懸念
 これまでの東日本大震災を巡る判決の都度表明してきたことだが,不確実性が非常に高いという特性を持つ自然災害に伴って生じた人的被害について,災害後の知見を元に予見可能性を幅広く認め,管理者側にあたる組織・個人の災害時(及び平時の備えにおける)の緊急的な判断・対応について,結果責任を強く問うありかたには,今後の防災対策を推進する上で本当にそれでよいのかという懸念を捨てきれない.
この点については
釜石市鵜住居防災センター関係の判決について
石巻市大川小学校関係の判決について
などですでに述べているので,詳細は省略する.
 
●災害時は児童生徒は「引き渡す」ことが原則ではないのでは
 以下は,過去及び今後の災害時の学校側の対応について「こうすべきだった」「こうすべき」という意味での話では無く,今後の防災対策を考える上での一つの考え方としてのコメントである.
 
 学校現場における災害に関する「訓練」の一つとして,近年はしばしば「引き渡し訓練」が行われる.このこと自体は無論問題ではないが,こうした訓練の準備,実施が,「災害時には児童生徒を家族に引き渡すことが大原則」であるかのようなイメージに繋がらないか懸念が持たれる.
 
 学校は多くの場合鉄筋コンクリート造の3階以上で,一般家庭に比べれば多くの災害に対して耐災害性を持っていると考えられ,現に避難場所となっていることも多い.そうした「相対的に安全な場所」から,安全性が必ずしも高くない自宅に対して児童生徒を「引き渡す」ことが,常に最善とは限らない.
 
 無論,学校自体の各種災害に対する安全性を確認しておくことが先決ではある.その上で,災害時の対応は常に「引き渡し」ありきではなく,学校にとどまることも選択肢の一つとして,学校,家庭の双方が考えておくことも重要なのではなかろうか.

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