2017年5月 5日 (金)

時評=避難準備・指示の名称変更-情報の意味考えたい

3月2日付け静岡新聞「時評」欄に掲載された筆者の寄稿記事です.だいぶ時間が経ってしまいましたが,記録として掲示しておきます.
 
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時評=避難準備・指示の名称変更-情報の意味考えたい
 
 昨年の台風10号災害時の高齢者施設での人的被害発生などをきっかけに,内閣府は「避難勧告等の判断・伝達マニュアル作成ガイドラインに関する検討会」を設置した.避難に関する情報について様々な議論が行われ,筆者も参加の機会を得た.内閣府はこの報告も踏まえ,情報の名称変更も含めたガイドラインの改訂を行い1月末に公表した.これまでの「避難準備情報」は「避難準備・高齢者等避難開始」に,「避難指示」は「避難指示(緊急)」となった.
 
 名称は変わるが意味はこれまでと変わらない.「避難準備・高齢者等避難開始」とは,避難に時間のかかる人(お年寄り,障害のある方,乳幼児,外国人など)や危険な場所(土砂災害特別警戒区域や堤防未整備河川の近くなど)にいる人に避難を呼びかける情報だ.他の人も,気象情報などに注意し危険を感じたら自発的な避難行動がのぞまれる.
 
 「準備だけであり避難はしなくてよい」「高齢者向けの情報だから自分には関係ない」などの受け止め方は適切でない.「避難勧告」は避難準備情報段階よりも災害の危険性が高まった場合にすべての人に速やかな避難行動を呼びかける情報,「避難指示」はさらに災害の危険性が高まった場合に直ちに避難行動をとることを強く呼びかける情報である.
 
 避難とは「決められた避難所に行くこと」だけでなく,何らかの手段で安全を確保するという意味である.危険性が急激に高まった場合などは,避難所が未開設でも注意喚起のために避難勧告などを出すこともある.このような場合,避難所でなくても近隣や屋内の安全な場所への移動も避難の一つとなる.決められた避難場所でも,例えば土地が低いため地震時には使用するが大雨時には使用しないと計画されていることもある.日頃の確認が重要だ.
 
 自然災害時には自分自身の判断で避難行動をとることが大原則だ.避難勧告等は様々な情報の一つに過ぎず,情報を元に判断・行動するのは私たち自身である.まずは自宅や仕事先などでどのような災害が起こりうるのかハザードマップなどで確認しておくことが重要だ.その上で,様々な情報や周囲の様子に注意し,危険な状況を少しでも早く察知することが大変重要になる.

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2017年4月28日 (金)

東松島市野蒜小学校での災害に関する仙台高裁の判決から思うこと

 4月27日に仙台高裁で出された,東日本大震災時の宮城県東松島市野蒜小学校に関係する人的被害についての判決文(要旨)を入手する機会を得たので,一読しての印象を書き留めておきたい.
 
 本ブログでは繰り返し書いていることだが,筆者は災害情報に関する研究者ではあるが,裁判や法律に関する専門的知見は持たず,災害訴訟について体系的な知識も持ち合わせない.あくまでも災害に関する研究者としての感想であることをお断りしておきたい.
 
●訴訟の概要
 本件は,
  1. 宮城県東松島市立野蒜小学校体育館に避難して結果的に津波により亡くなった付近の住民の方(2人,以下公開されている一審の判決文に従いD,Eとする)
  2. 同小学校の児童で,下校後いったん同小学校に避難し,後に同級生の保護者に引き渡されて帰宅し,自宅で津波により亡くなったとみられる児童1人(以下同F)
のそれぞれの遺族が,同小学校を管理する東松島市を被告として行った訴訟である.一審の仙台地方裁判所は,DとEに関しては原告の訴えを棄却,Fについては東松島市側の責任を認める判決を出している.DまたはEの遺族(どちらか確認できていない)および東松島市が控訴し,二審の仙台高等裁判所は,いずれの控訴も棄却し,一審判決が支持された.
 基本的には一審通り,部分的には一審より踏み込んで,より厳しい判決となったと感じている.
Photo
 
●野蒜小学校での被害(D,E)について
 一審の判決文からはまず,DとE,Fについて小学校側が,津波により犠牲となり得ることを事前に予見できたかどうか,という点が主な争点の一つとなったと読み取れる.
 
 DとEが避難した野蒜小学校は,震災前に公表されていた津波浸水予測図では,浸水想定区域外にあり,津波の際の避難場所ともなっていた.一審判決は地震発生後の出された津波関係の情報などを最大限入手できたとしても,同小学校に津波が到達することを具体的に予見できたとは言えないと判断している.二審判決はこれをそのまま認めているようである.
 
 一審判決は,校内のテレビ・ラジオが停電で使用できなかったとしても,カーラジオ,防災無線,携帯のインターネット,ワンセグ等で情報収集は可能だったと判断しており,二審判決もこれを認めたようである.地震直後の混乱した「避難所」管理に当たった小学校教職員の姿を考えるといささか現実的でない情報入手の可能性を認めていることに違和感があるが,同小学校に人的被害をもたらすような規模の津波が到達することを具体的に予見できたわけではないとの判断は,共感できる.
 
●学校に避難した住民に対する学校管理者側の義務について
 あるいは筆者の誤読かもしれないが,二審判決には一審では明記されていなかった,学校に避難した住民に対する学校管理者側の義務についての記載があったように思われる.
 
 二審判決は,「避難した住民に対する応急の救護に協力する責務を負っていた」とした上で,住民は「自己の責任において自ら適切な避難行動をとり得る」とし,「学校施設内に児童らが存する場合においては,児童らに対する安全確保義務に加えて,当該施設の管理者の地位にあることから当然に避難者らを誘導する義務まで負っていたと解することは相当でない」と明記している.
 
 学校が避難所であるからといって,そこに避難した住民の被害に対する,学校管理者側の結果責任は限定的であると読み取れ,これは管理者側にとって現実的な示唆となるように思われる.
 
●いわゆる「児童引き渡し」の判断について
 一方Fについては,自宅は津波浸水想定区域外にあったと見なせるが,帰宅途中には津波浸水想定区域内を必ず通過する位置関係にあったこと,帰宅しても保護者が在宅するかは不明だったこと,Fが9歳の子どもだったことを考えると,無事帰宅したとしても帰宅後に津波浸水想定区域内に移動するといったこともあり得たことなどから,Fが津波に見舞われる可能性は予見可能で,小学校側の判断は過失が認められると一審は判断した.二審判決もほぼこれを認めたようである.
 
 しかし,この判断に従えば,小学校側は児童の自宅位置ばかりでなく,帰宅経路上における災害の危険性を,全教職員が完全に把握し,かつ事態に応じて予測もしなければならないということになるのではなかろうか.
 
 また一審では「(学校側が)予見すべき結果は,本件津波がFの自宅まで到達することではなく,Fが災害時児童引き取り責任者に確実に引き渡されてその安全が確保されるまでに本件津波に巻き込まれてその生命または身体に危険が及ぶことで足りる」としていた.一方二審では「予見すべき対象は大規模災害時に発生しうる様々な危難に遭うことで足り,本件津波に巻き込まれて死亡することまで具体的に予見する必要はない」としており,一審よりさらに予見すべきことを広く認めたように思われる.
 
 無論,こうした予見ができるに越したことはなく,最善は尽くさねばならない.しかし,2011年当時の平均的な日本の学校現場において,あるいは現代においても,このような予見ができることが「当然」であり,できなければ過失であるという考え方は,筆者には納得できない.
 
 今は津波のことばかりが注目されているが,ありうる現象としては,洪水,土砂災害,火山活動など,様々なものがある.それらすべてについて,全学校が,全児童生徒について把握,予見することが現実に可能なのだろうか.
 
 なおFが引き渡されたのは「災害時児童引取責任者」ではないが,Fの同級生の保護者であった.一審は「災害時児童引取責任者」ではない者に引き渡したこと自体を完全に否定したわけでく,引き渡すに当たり「児童の安全が確認できない限り(牛山注:災害時児童引取責任者以外の者に)引き渡してはならないという注意義務に違反した」,すなわち危険が予見できたはずだから,この者に引き渡すべきではなかった,という判断をしているように読み取れた.二審もほぼ同様の判断と読み取れる.
 
 しかし,予見可能性の有無にかかわらず,災害時に,同級生の保護者から児童を引き取って帰宅させる旨の申し出を受けて,それを拒否しなかったことを過失と言うべきなのだろうか.さらに酷なことを言えば,津波浸水想定区域の情報や,地震発生後の津波に関する情報は,学校関係者だけに限定公開されていたわけではなく,国民誰もが知りうる情報だった.その状況下で,小学校側に一方的な過失があると言えるのだろうか,という思いも生じうる.
 
 筆者は小学校側ではない誰かの責任を問うべきだと思っているのではない.このように,誰かの「過失」を問うこと自体が,今後の災害時の対応を考える上で,本当に社会的に対応可能なのか,という懸念を持っている.
 
●災害時の管理者側の責任を強く追及することに対する懸念
 これまでの東日本大震災を巡る判決の都度表明してきたことだが,不確実性が非常に高いという特性を持つ自然災害に伴って生じた人的被害について,災害後の知見を元に予見可能性を幅広く認め,管理者側にあたる組織・個人の災害時(及び平時の備えにおける)の緊急的な判断・対応について,結果責任を強く問うありかたには,今後の防災対策を推進する上で本当にそれでよいのかという懸念を捨てきれない.
この点については
釜石市鵜住居防災センター関係の判決について
石巻市大川小学校関係の判決について
などですでに述べているので,詳細は省略する.
 
●災害時は児童生徒は「引き渡す」ことが原則ではないのでは
 以下は,過去及び今後の災害時の学校側の対応について「こうすべきだった」「こうすべき」という意味での話では無く,今後の防災対策を考える上での一つの考え方としてのコメントである.
 
 学校現場における災害に関する「訓練」の一つとして,近年はしばしば「引き渡し訓練」が行われる.このこと自体は無論問題ではないが,こうした訓練の準備,実施が,「災害時には児童生徒を家族に引き渡すことが大原則」であるかのようなイメージに繋がらないか懸念が持たれる.
 
 学校は多くの場合鉄筋コンクリート造の3階以上で,一般家庭に比べれば多くの災害に対して耐災害性を持っていると考えられ,現に避難場所となっていることも多い.そうした「相対的に安全な場所」から,安全性が必ずしも高くない自宅に対して児童生徒を「引き渡す」ことが,常に最善とは限らない.
 
 無論,学校自体の各種災害に対する安全性を確認しておくことが先決ではある.その上で,災害時の対応は常に「引き渡し」ありきではなく,学校にとどまることも選択肢の一つとして,学校,家庭の双方が考えておくことも重要なのではなかろうか.

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2017年4月22日 (土)

釜石市鵜住居地区防災センターでの災害に関する盛岡地裁の判決から思うこと

 4月21日に盛岡地裁で出された,東日本大震災時の岩手県釜石市鵜住居地区防災センターでの人的被害についての判決文を入手する機会を得たので,一読しての印象を書き留めておきたい.
 
 なお筆者は,災害情報に関する研究者ではあるが,裁判や法律に関する専門的知見は持たず,災害訴訟について体系的な知識も持ち合わせない.あくまでも災害に関する研究者としての感想であることをお断りしておきたい.

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 鵜住居地区防災センターでの被害は,本来の避難場所でない施設が誤認されて避難者が集まり,多くの被害を生じた側面があり,極めて痛ましいできごとであること,こうしたことが繰り返されないよう社会全体として努めていかなければならないことは言うまでもない.ことに,同センターと長内川を挟んで対岸側に当たる釜石東中学校・鵜住居小学校では,児童生徒が率先して避難行動をとり,「釜石の出来事」などとして広く知られることになった被害軽減がはかられていることも考え合わせると,いたたまれない気持ちになる.
 
そのような状況下で厳しい言い方になることは承知しているが,本判決で示された判断は総じて現実的で,共感できるものだった.
 
●予見可能性について
 震災前に公表されていた過去の津波浸水実績の情報から見て,防災センター付近へ津波が到達しうることについては予見可能な範囲だと言っていい.しかし,浸水実績域の縁辺部でもあり(津波は箱のような形態で到達するのではなく陸域の奥に行けば行くほどその高さ=浸水深は浅くなる),シミュレーションにもとづく浸水想定区域からは離れていたことなどを考えると,2階屋上に達するような津波が来ることを確実に予見可能だったとは言えないと思われる.「過去に津波による浸水の実績がある」ことは「その場所で建物の2階以上にも達する浸水深の津波がありうる」ことを意味するものではない.
 
 地震発生後の時点での予見可能性についても,大津波警報や,予想される津波の高さ3m,6mという情報を覚知したとしても,それによりハザードマップで示されていない範囲にまで,建物2階を越えるような規模の津波が到達する可能性を理解することが,2011年3月11日時点の一般的な国民において「当然わかったはずだ」と言えるような状況になっていたとは思えない.ハザードマップ等には,一般的な注意事項として,ハザードマップの表記を越える現象も起こりうることが注記されていることは,震災前の時点でもよく見られたと言っていい.しかし,それは一般的な基礎知識として注意を喚起しているものであり,「当然誰もが理解していたこと,しているべきこと」だとは言えないと筆者は考える.
 
 判決では,過去の浸水実績の情報があることを挙げ「明治三陸地震及び昭和三陸地震の際,本件幼稚園付近(牛山注:防災センターに隣接)にまで津波が到達した可能性は否定できない」としつつも,その後の防潮堤整備と「(前略)津波浸水予測図では,前記各地震と同等の地震が発生した場合であっても,本件幼稚園周辺は浸水しないと想定されていた」ことを挙げて,「大津波警報(3m)が発表された時点(牛山注:14:50頃)で,津波が本件幼稚園に到達する可能性を予見できたとは認めがたい」としている.
 
 ただし15:14頃の大津波警報(6m)については,「明治三陸地震と同等の地震が発生した場合に鵜住居地区に到達すると想定されていた津波の高さは少なくとも6m以上と予想されていたことに照らすと,本件大津波警報(6m)の発表により(中略)津波浸水予測図の想定を上回る規模の津波が発生することが予見し得た可能性が全くないとはいえない」と,低いものの予見可能性は認めている.ただし,同地区への津波到達が15:16頃と推定されていることから,予見できたとしても,現実的な対応は困難だったろうとの判断がなされている.概ね共感できる.

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●防災センターが津波の際の避難場所でないことの周知について
 同センターが津波の際の避難場所ではないことが隠蔽されていたわけではなく,津波の際の避難場所は市全体の広報,地域版のお知らせ,ハザードマップなど,一般的に考え得る方法での広報が複数回にわたってなされていた.
 
 判決では,「鵜住居地区における一次避難場所として鵜住神社境内ほか3か所を指定し,全戸配布の「かまいし生活べんり帳」において,これらの名称や所在地を本件津波予測図上に示すなどしていたほか,各種広報誌や冊子を用いて,避難場所等に関する広報活動を実施していたのであり,鵜住居地区の住民に対し,避難に関する事項について周知をしていたものと認められる」としており,筆者には共感できる.そんな方法では徹底しない,といった考え方ももっともだが,これらの方法をとっていたことが周知を怠った重大な過失だとまでは言えないと筆者は考える.
 
 震災前の2010年5月,2011年3月に実施された津波避難訓練で同センターで避難訓練が行われたこと,これが訓練参加率を高めるための工夫として地元から提案があり,市が了解したものであったと,同市の検証報告書でも認められている.この訓練のあり方が,同センターが津波の際に避難すべき場所であるとの誤認に繋がった可能性は否定できないと筆者も思う.しかし,地域からの提案を踏まえたもので市が特に指示をしたわけではないことも考えると,この訓練のあり方について,市に一方的な責任を負わせることが適切だとは思えない.
 
 判決では,「上記各訓練における本件センターの利用に関し,被告と前記町内会の間でどのような合意がされたかは,全く明らかでない」とし「被告が前記のような了承をし,結果的に相当数の住民が本件センターに参集した事実のみをもって,被告が本件センターを,他の一次避難場所と同様,津波警報等が発表された際に避難すべき場所として取り扱うことを許容したとは認められない.そうすると,被告が,本件センターが一次避難場所であるとはいえないから,市長が本来の一次避難場所に加えて,本件センターが一次避難場所でないことまで周知すべきであったとはいえない」としており,筆者には共感できる.
 
 判決が,津波避難場所ではないセンターで津波避難訓練を行うことを市が了承したことで,市が住民を「誤解させた」のではないと認めたことは注目される.この避難訓練で住民間に誤解が生じ,その結果として適切でない避難場所に人が集まり多くの犠牲者が出た可能性は高いと筆者も考える.しかしながら,それは「誤解【が】生じた」のであり,非常に悲しく,残念なことで,今後の防災対策の強い教訓としなければならないことではあるが,「誤解させた」として,特定組織・個人の結果責任を追及すべきことではないと筆者は考える.
 
 また,「市が了承した」すなわち,地域の提案が元になり,市はそれを認めた立場であることにも関心が持たれる.災害による人的被害について組織・個人の結果責任を強く追及するのであれば(それを筆者はよいことだと思わない),その責任は一方的に「行政」に向けられるのではなく「地域」にも向けられうることは,よくよく考えておかなければならないと思われる.
 
●災害時の管理者側の責任を強く追及することに対する懸念
 不確実性が非常に高いという特性を持つ自然災害に伴って生じた人的被害について,災害後の知見を元に予見可能性を幅広く認め,管理者側にあたる組織・個人の災害時(及び平時の備えにおける)の緊急的な判断・対応について,結果責任を強く問うありかたには,今後の防災対策を推進する上で本当にそれでよいのかという懸念を捨てきれない.
 
 東日本大震災発生時とは異なり,現在では,非常に大きな規模の外力(津波など)を考慮した被害想定,ハザードマップ等が作成され,様々な手段で周知が図られている.かなり大規模な現象であっても,発生後に「このようなことが起こるのはわかったはずだ」と言えるようになってしまっている.
 
 想定情報が作成され,広く周知も図られている状況下では,もはや「想定していなかった,周知していなかった」と行政側を責めるだけという考え方は一方的で,我々国民の側も「周知されていたのだからわかっていたはずだ」と捉えることも可能になるのではないか.
 
 また,いわゆる「管理者」は,なにも行政機関とは限らない.民間企業,任意団体など,国民のかなりの割合が「管理者」側となる可能性がある.大規模災害の発生も想定される中,多数の「管理者」の責任を強く問うやり方は,社会的に本当に対応可能なのだろうか.
 
●避難所・避難場所に対する国民的な理解も重要
 鵜住居地区防災センターは,避難場所としての機能がわかりにくかったことが問題としてあげられている.現代では,「どんな災害時にも同一の避難場所に避難する」という画一的な考え方に問題があることがひろく認識され,災害の種類別に避難場所を選定することが国レベルでも進められている.これは同センターでの被害もその背景の一つとなった改善の方向ではある.
 
 一方で「この避難場所は××の時には使用するが××の時には使用しない」といった方針が,一般住民にとってわかりにくい,浸透しにくいといった見方もある.
 
 「わかりにくいので危険な場所には一切避難所を置いてはならない」といった考え方もあるが,特に地方部では避難可能な施設が限定されることも考えると,広範囲にわたって避難所がおけないことにもなりかねず,現実的ではない.「洪水土砂災害の危険性があるので,2階以上だけを使用する」などの工夫も必要になる.
 
 「災害の種類によって避難場所や避難の方法は異なることがある」ことを知り,自分の地域では,どのようなときに,どのように行動するのがよいかを,公表されている様々な情報を参考にあらかじめ考えておくことがますます重要になっている.
 
●釜石市当局に対して思うこと
 上記では釜石市に好意的なことを書いているように思えるかもしれないが,釜石市を擁護したいとは全く思わない.釜石市は,市の側の責任を大きく認め,被害が回避可能だったとまで踏み込んでいる報告書を公表している.この内容に筆者はやや納得できないものを感じているが,一つの見識だと思う.市自身がそこまで踏み込んだ見方をすでに出しているのであれば,このような訴訟に反論するのではなく,潔く原告の方達と対話したらどうですか,とは思っている.

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2017年2月16日 (木)

台風10号の岩手・北海道災害-山地河川洪水の教訓

11月24日付け静岡新聞「時評」欄に掲載された筆者の寄稿記事です.あまりにも遅れての掲載となりました.「避難準備情報がどうこう」というより,山地河川での洪水の恐ろしさを見せつけた災害,目先の事例に引きずられるな,という意図が強くにじんでいます.
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時評=台風10号の岩手・北海道災害-山地河川洪水の教訓
 
 2016年の出水期が終わり,季節的には洪水・土砂災害は一段落の時期となった.11月上旬現在,今年の洪水・土砂災害で最大のものは,8月30~31日にかけて北日本を通過した台風10号による災害となっている.
 
 この災害では,岩手県岩泉町でのグループホームでの高齢者9人死亡の被害が注目されたが,この場所にとどまらずこの事例の人的被害は,主に山地の河川での洪水によってもたらされたことが特徴である.
 
 全国の人的被害は,死者22人,行方不明者5人(10月27日消防庁資料)が伝えられている.筆者の調査ではこれらのうち,洪水(川から溢れた水)によるもの18人,増水した河川に近づいた事によるもの4人,土砂災害によるもの5人という内訳だった.筆者の最近十数年間の風水害犠牲者の調査によれば,洪水による犠牲者は全体の2割であるので,27人中18人(7割)というのはかなり多い割合である.
 
 また,何らかの避難行動をとったにもかかわらず遭難したと思われるものが8人おり,これは2004年以降の風水害では3番目の多さである.避難行動は必ずしも低調ではなかった可能性も考えられる.
 
 山地河川の洪水は,河川の勾配が急なこと,洪水が流れ得る断面積が狭いことから,流速が速くなりやすく,家屋や人に対し大きな被害をもたらしうる.近年では,2011年台風12号災害時の和歌山県那智勝浦町,2009年兵庫県佐用町での災害などが類例である.静岡県内にもこうした河川は少なくない.
 
 山地河川ではハザードマップ整備が進んでいないことも多いが,「山だから洪水は関係ない」などというのは誤解であり,河川付近で,河川と同様な高さの場所は基本的には洪水の影響を受けうると考えた方がいいだろう.
 
 2013年の伊豆大島では火山地帯での土砂災害,2014年の広島では都市近郊の土砂災害,2015年は鬼怒川の平野部河川洪水,今回は山地河川の洪水と,いろいろなタイプの風水害が繰り返されているが,共通しているのは「大局的には,起こりうる場所で,起こりうる現象が発生している」である.「いつ」災害が起こるかの予測は困難だが,「どこで,どんな」災害が起こりうるかはある程度予測可能で,情報も充実しつつある.私たちにはまだまだできることがある.
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2016年11月 2日 (水)

「避難準備情報」の言葉の変更に思うこと

「避難準備情報」の言葉がわかりにくいので変更すべきでは,という議論があるので,筆者の考えをメモしておきたい.
 
「避難準備情報」がはじめて明文化された2005年「避難勧告等の判断・伝達マニュアル作成ガイドライン」では,「避難準備(要援護者避難)情報」と表記され,要援護者等は避難行動を開始,他の者は避難準備を開始,が「求める行動」とされていた.2005年版ガイドライン作成の背景は,2004年が10個の台風が上陸するなど風水害が多く,避難勧告発令をためらったケースや,要援護者等が犠牲となったケースが目立ったことがあったように筆者は受け止めている.
 
2005年版ガイドラインやその検討報告をみると,このときの避難準備情報は,避難勧告より早い段階でなんらかの行動を促すという意味もあったが,どちらかというと要援護者に対する支援という意味合いが強かったように感じられた.
 
なお,2005年版ガイドラインの重要事項は,避難準備情報の規定もあるが,避難勧告の客観的基準や,その発令範囲を明確化するための目安を示した点も大きかっただろうと,筆者は評価している.
 
しかし,その後も「避難勧告の発令をためらう」というケースが後を絶たず,特に2013年伊豆大島,2014年広島での避難勧告の遅れがかなり話題となった.判断基準にも課題はあったが,「避難勧告を出す」ということのハードルの高さも一因ではと議論された.「避難勧告を出す」のハードルとは,空振り批判を恐れる,避難所開設や役所内の体制立ち上げなど費用面の不安など,さまざま.
 
ガイドラインで,避難勧告より前段階に出せる「避難準備情報」がありながら「避難準備情報は要援護者向けの情報」と思われ,一般住民も含めた「勧告の前段階の情報」として活用されなかった側面も.このあたり,いくつかの災害事例を見た印象として筆者自身が持っていることだけど,もっと定量的に当時調べておくべきだったと反省している.
 
こうした教訓から,2015年版ガイドラインでは,(要援護者避難)がとれ「避難準備情報」に明快化された.また要配慮者の立ち退き避難とともに,他の者も「立ち退き避難の準備を整えるとともに<中略>自発的に避難を開始することが望ましい」とされた.
 
今仮に,避難準備情報を「要配慮者避難情報」等に変更する場合,いわば2005年ガイドラインへの回帰とも言える状況となる.しかしそうなると,避難勧告より早い段階で要支援者以外の人に注意を喚起する意味は非常に読み取りにくくなる気がする.
 
「一般向け避難準備情報」と「要配慮者避難情報」を設ける,という考え方もありうる.しかし,両者の発令基準を変えることは合理的でないと思われ,ただでさえ複雑だとされる避難関連情報がさらに複雑化することが懸念される.
 
合成して「避難準備・要配慮者避難開始情報」とするという考えもありそうだ.しかし,もともと「わかりにくい」という話から始まったのに,この言い回しが「わかりやすい」といえるだろうか.たとえばYahooの避難情報ページ https://goo.gl/1oC2gj では,避難準備情報は「避難準備」と4文字に略記され,避難指示(赤),避難勧告(橙),避難準備(黄)と色分け表示されている.「要配慮者避難情報」となったら?
 
かりに「避難準備情報」の語を変える場合,すでにある程度定着して,全国各地のハザードマップ,防災関連資料等に記載された言葉をすべて書き換え,新たな言葉を普及啓発していくという大きなコストが生じることも懸念される.避難勧告,避難指示も含めて,たとえばすべて数字で示すとかの抜本的な改定を行うならばこうしたコストも意義があるように思うが.部分的な用語変更ではどうだろう.
 
筆者も「避難準備情報」という言葉がわかりやすく,ベストな言葉だとはおもわない.しかし,「要配慮者が避難開始するという意味がわかりにくい」という理由で,この言葉だけを変えることは,防災関連情報全体としてのメリットがあまり大きくないように感じられる.
 
無論今のままでよいとは思わない.しかし,言葉を換える以外の改善策も考えてもいいのではなかろうか.意味の周知を徹底することは当然考えられる.単に「避難準備情報発令」というだけでなく,その意味を合わせてアナウンスすることを定型化するなどもありだろう.防災気象情報や河川水位情報で導入されているような,「色」を決めて表記するなどもありそうだ.
 
どうするにせよ,改善するためには,こうした思いつきの羅列ではなく何らかの根拠の積み上げが必要だろう.時間がないが,筆者自身も努力してみたい.

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2016年10月27日 (木)

大川小学校災害に関する仙台地裁の判決から思うこと

10月26日に仙台地裁で出された,東日本大震災時の大川小学校での人的被害についての判決文を入手する機会を得たので,一読しての個人的な印象を書き留めておきたい.
 
筆者は,災害情報に関する研究者ではあるが,裁判や法律に関する専門的知見は持たない.あくまでも災害に関する研究者としての私見であることをお断りしておきたい.
 
大川小学校は,小学校という本来安全であるべき場で多数の子ども達が犠牲となったもので,このことは言葉が尽くせないほどに痛ましい.その上でも,やはりこれは非常に厳しい判決となったという印象だ.
 
判決は,東日本大震災発生前の段階で大川小学校関係者が,学校周辺への津波の可能性を認識しておらず具体的な避難場所等を決めておかなかったことや,地震発生から15時半頃までの間に校庭にとどまったという判断については,注意義務違反ではなかったとした.15時半頃,石巻市の広報車が伝えた北上川河口付近の松林を津波が越えているという情報に接して以降は,大規模な津波が到達することを予見できたとしており,この広報車による情報に重きを置いている.
 
このように,震災前から地震直後と,津波到達直前で分け,予見可能性をやや限定的に判断していることは,現に15時半以降に児童らの避難行動が行われていることも考えると,一定の理解ができる.たとえば「(震災前の時点でも)想定外の事態にも当然備えなければならなかった」「地震発生直後に当然大きな津波は予見できたはずだ」といった,幅広い予見可能性が認められたわけではないことは,率直に言ってよかったと思っている.
 
一方,15時半頃以降に目指した避難場所(三角地帯広場)が,大規模な津波の襲来を予見している中での判断としては不適当であり,裏山が避難場所として支障はなかったと判断している.事前の予見可能性ではなく,津波到達直前の避難場所の判断に主に過失を認めているようだ.
 
つまり,津波到達直前には,津波は堤防を確実に越え,三角地帯広場への避難では低すぎると判断できたはずであり,かつ裏山を避難場所として選択しなかったことが不適当だという見方のようだ.しかし,内陸部での津波の挙動について誰もが的確な知識があるとは思えず,当時において三角地帯広場の高さと予想されるその場所での津波の高さをとっさに比較できたはずだというのは,かなり厳しい判断だと思う.
 
また,崖崩れなども懸念され,必ずしも明瞭な道のない裏山を避難先として選択しなかったことが不適当だというのも,かなり厳しい判断だと思う.判決は「現実に津波の到来が迫っており,逃げ切れるか否かで生死を分ける状況下にあっては,列を乱して各自それぞれに山を駆け上がることを含め,高所への避難を最優先すべきであり」とあるが,このような考え方が広く一般化したのは東日本大震災以降ではなかろうか.無論このような判断ができれば,それに越したことはないが,当然そうすべきだったとまで言えるだろうか.
 
また,住民と相談し,裏山への避難について反対されたことについて,判決は「(住民)の意見をいたずらに重視することなく,自らの判断において児童の安全を優先し,裏山への避難を決断すべきであった」としているが,住民と混在した避難場所での状況を踏まえると,そのような「判断」を「すべきだった」と言うのが現実的か,難しいのではなかろうか.
 
大川小学校およびその周辺は,津波からの避難を考えるにしても,迷うことなく避難先を選択,移動することが難しい立地であったと思われる.釜谷地区の住民の死亡率は84%(石巻市検証報告書)とされている.これは今回の震災による犠牲者率としてかなり高い.例えば陸前高田市では浸水域人口に対する犠牲者率11%,500mメッシュごとの地区人口に対しても最大で30%ほどである(筆者調査).このことは津波来襲を予見し,確実な避難をすることが難しい地区だったことを示唆している.このような場所で,いわば「的確なとっさの判断」を行わなかったことが不適当であるとされるのは,管理者(ここでは教員)にとってかなり厳しいことだと思う.
 
判決では,管理者(ここでは教員)が災害進行中の「的確なとっさの判断」が当然行われるべきであったとしているようにおもえる.しかしこれは,災害前に事態を予見しておくことよりもむしろ応用的な高い能力を求めているように感じられる.
 
行政関係者や教育関係者に限らず,誰もが「管理者」になり得る.こうした高い能力の行使を管理者に求めることは,我々の誰もが重い責任を追うことになる.それに我々は社会全体として対応できるだろうか.また,自然災害時の「管理者」故意ではない判断にこうした厳しい責任追及がおこなわれることが,関係者の口を過度に重くさせ,客観的な原因分析を阻害する可能性も懸念される.
 
こうした能力が求められるのであれば,教員,行政職員等,民間も含め管理者となり得る立場の人に対する研修,教育機会の充実(予算の投入)がますます重要になってくるが,それとて「とっさの判断」を適切に行うことに効果的かどうかは難しく,教育をしているのだからとさらに厳しい責任追及を行うようなことにつながらないかも心配される.
 
一方,被災後の校長,生存教員,市などの対応については注意義務違反は認められなかった.しかし,本裁判に至った心情的な背景としては,被災後の関係機関の遺族らへの対応に課題があった可能性は否定できない.ただしこのことも,単純に批判できるものではないと思う.災害後の現地機関は,未経験,かつ平常時をはるかに上回る業務量を抱え,丁寧な対応ができなくなる可能性がある.被災地域の各種機関を,いかに支えていくかも大きな課題だろう.
 
※「三角地帯」を「三角広場」と誤記していたので修正しました.(2016/11/01)
 

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2016年9月 9日 (金)

大雨時の避難行動-河川水位情報 活用を

9月8日付け静岡新聞「時評」欄に掲載された筆者の寄稿記事です.8月末の東北・北海道での豪雨災害発生より前に入稿した原稿ですが,原稿が出る前にまたしても洪水災害発生となってしまいました.岩手県岩泉町の災害に限っていえば,山間部で水位観測所の少ない地域でした.「やっぱり役に立たないじゃないか」ではなくて,行き届いていない地域は当然ありますが,役に立つ地域も多くあるわけですから,「使えない」と決めつけず,活用していくことが重要だと思っています.
 
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時評=大雨時の避難行動-河川水位情報 活用を
 
 昨年,関東から東北の広い範囲に被害をもたらした「平成27(2015)年9月関東・東北豪雨」からまもなく1年となる.この豪雨に伴って様々な災害が生じたが,茨城県常総市(鬼怒川)などでの堤防決壊,各地の河川での越水(堤防がある川で水が堤防からあふれだすこと)など,洪水による災害が目立つ事例であった.
 
 「水につかる(浸水)」現象は大別すると「洪水」と「内水氾濫」の2種類がある.洪水は主に堤防の決壊や河川の水が堤防を越えたりすることにより起こる浸水をさし,内水氾濫は大雨によって地表の水が増えて河川等への排水が追いつかなくなり,側溝などから水があふれ出す浸水を指す.
 
 ただし両者は明確に区別できない場合も少なくない.洪水,内水氾濫ともに浸水による家屋や農地などの被害があるが,洪水の場合は堤防決壊箇所付近での家屋の流失,道路走行中の車や人が流されるなど,より深刻な被害に繋がる場合がある.
 
 洪水は,自分がいる場所を見回している限りでは,「突然水がやってきた」と感じるかもしれない.しかし,何の前触れもなく突然洪水が発生することは考えにくい.大量の降雨→近隣の河川水位が上昇→越水や堤防決壊が発生→浸水開始,というケースがほとんどである.雨や,河川の水位に注意していれば,不意打ちは回避できる可能性がある.
 
 河川水位は重要な情報だが,大雨の中で川にちかづくことは危険で推奨できない.筆者の最近約10年間の調査では,「水田,用水路,川などの様子を見に」でかけて亡くなった人が,全犠牲者の11%にも達する.
 
 水位は主な川の多くの地点で観測されており,国土交通省「川の防災情報」,Yahoo!「天気・災害」,静岡県「サイポスレーダー」などのホームページや,SBSとNHKテレビのデータ放送で見ることができる.主な観測所については,注意する基準の水位が設定されており,たとえば「氾濫危険水位」を超えると,その観測所の周辺で水が川からあふれ出す可能性があることを意味する.
 
 まずはハザードマップで自宅や勤務先付近の浸水の可能性を確認し,大雨の時には河川の水位情報にも目を向けたい.「ここが浸水するとは思わなかった」「突然水がやってきた」といった声は少しでも減らしたい.

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2016年8月23日 (火)

台風接近時の情報の見方としてあらためて気になること

台風接近時の情報の見方について,どうにも気になることをあらためて書いてみました.

台風の「中心」付近は,風は一番強い可能性が高いけど,雨も一番強いわけではありません.雨は台風の中心から数百km以上離れた所で強く降ることがごく普通にあります.「中心」「上陸」などという,あえて言うならば「半世紀前に重要だったが今となっては『雑』な情報」に気をもむのではなく,レーダー等で素直に雨雲の様子を見ましょう.

台風の中心付近で雨が激しいわけではない,というのは「台風の目だから」ではありません.そもそも台風の雨雲は「中心は目で雲がなく回りに厚い雲が同心円状に広がってる」のではなく,渦巻き状に厚い雲,薄い雲が中心を取り巻いています.「台風の目」もことさらに注目しすぎるのもどうかと思います.

台風に伴う雨の特性(気象庁)

http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/3-1.html

「台風の中心で雨が最も強いわけではない」は,レーダー画像を見れば一目瞭然です.下記画像では,中心からはるか離れた北西側に雨の強いところが分布しています. pic.twitter.com/tCjKShFthg

雨は固体じゃありませんから,流れていったり,しみこんだりします.「今激しく降っているところ」だけに注意ではなくて,「これまでにどれくらい降ったか」(土砂災害警戒判定メッシュ情報とか),「流れてきたものはどれくらいか」(河川の水位とか,最寄りの観測所だけでなく上流の観測所も)にも要注意です.

台風に限らず,豪雨時に「田んぼの様子を見に」の危険性は最近かなり注意されてきた感があり,これはよいことだと思いますが,実はそうした犠牲者は全体の6.7%,「川などの様子を見に」を合わせて11.4%です(当方調べ goo.gl/Q2UzKt ).少なくはないが,「田んぼの様子を見に」だけの強調も少し不安を覚えます.

むしろより単純に「雨風激しいときは外をうろつかない」も重要かもしれません.全犠牲者の約半数,水関係の犠牲者の8割以上が「屋外」で亡くなっています. pic.twitter.com/UE0vNzQcjG

これも台風に限った話ではありませんが,「夜の災害が怖い」とよく言われます.しかし,筆者による2004-2014年の風水害犠牲者の調査(当方調べ goo.gl/Q2UzKt )からは亡くなった方の遭難時間帯は夜昼ほぼ半々です.昼間は「少し無茶してしまう」事による遭難,といった可能性もありそうです.夜は夜の怖さが,昼は昼の怖さがある,と考えた方がいいように思います. pic.twitter.com/6LtvF7hoRI

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2016年6月29日 (水)

改めて考える地震対策-耐震が一丁目一番地

6月25日付け静岡新聞「時評」欄に掲載された筆者の寄稿記事です.繰り返し指摘されていることですが,人的被害(最も深刻な被害)は明らかに古い家屋に集中しています.
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 「平成28年熊本地震」発生から約2ヶ月.この間に3回ほど現地を調査で訪れた.地震は私にとって専門外の現象でもあり,いろいろと知らなかったことにも出会った.この地震では,地震そのものによる直接死者・行方不明者が50人に上った.避難生活などに伴う関連死者数はまだ流動的だが,6月14日静岡新聞朝刊では関連死疑いが20人とも伝えられる.
 
 死者・行方不明者が50人以上となった自然災害は,1980年代以降でも本事例を含めて15事例,仮に70人以上では11事例である.50人以上の被害となったことは大変痛ましいが,決して「未曾有」ではなく繰り返し発生している規模だ.日本が厳しい自然環境下にあることにあらためて愕然とさせられる.
 
 現地を見て最も印象的なことは,すでに多く伝えられてはいるが,「激しく倒壊しているのは主に古い家屋である」だった.比較的新しい家屋の倒壊,損壊も見られたが,大局的には古い家屋の被害の方が目立った.
 
 筆者は今回の地震による犠牲者発生状況の調査を進めているが,地震による建物等倒壊に伴って亡くなった方は38人で,そのうち所在家屋が現在の耐震基準とおおむね同等の1980年代半ば以降の新築だった可能性が高いのは今のところ2人(1世帯)である.犠牲者は明らかに古い家屋に集中している.
 
 4月14日の「前震」があり,その直後は避難したが「もう大丈夫だろう」と考え16日夜は自宅に戻り,「本震」で亡くなったことが伝えられている.確かにそうしたケースも少なくないが,ほとんどが古い家屋での犠牲者だったことを考えると,「もう大丈夫だろう」という判断によって厳しい結果となったというよりは,そもそも家屋自体に主な原因があったと考えた方がいいのかもしれない.
 
 いくら一生懸命避難袋を作り,サバイバル知識を身につけ,緻密な津波避難訓練をしていても,古い家屋に居住し地震発生とともに建物倒壊で命を失っては,それらの「備え」は何の役にも立たない.耐震化の支援策も様々用意されている.賃貸であれば「比較的新しい家屋を選ぶ」ことも立派な対策となる.地震対策の一丁目一番地は耐震化である,とあらためて考えている.

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2016年5月13日 (金)

自力避難困難者の支援-助ける側の安全 第一

だいぶ時間が経ってしまいましたが,4月13日付け静岡新聞「時評」欄に掲載された筆者の寄稿記事です.「避難を支援する=助けに行く」ととらえる事には強い違和感を覚えます.何よりも重要なのは「支援する人」も含めた各自の安全確保だと思います.

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時評=自力避難困難者の支援-助ける側の安全 第一
 
 災害時の「避難」を考える上で,自力避難が難しい人の支援は大きな課題となっている.近年の災害対策基本法改正で,高齢者,障害者,乳幼児など「自ら避難することが困難な者であってその円滑かつ迅速な避難の確保を図るため特に支援を要するもの」は「避難行動要支援者」と呼ばれ,行政機関による名簿作成が行われることになった.要支援者支援が必要なことは言うまでもないが,「避難を支援する=助けに行く」ととらえる事には,筆者は強い違和感を覚える.
 
 たとえば,地震災害は地震発生の瞬間に最も危険性が高まるタイプであり,「支援」は,状況が少し落ち着いてから要支援者の安否を確認に行く,といったスタイルが想定される.危険がある程度去った事後の活動が中心である.
 
 一方,風水害や津波災害など危険性が次第に高まっていくタイプの災害では,事前の活動の余地がある.しかし,危険性が高まる前に「助けに行く」活動を完了することはかなり難しい.
 
 「AさんがBさんを支援する」といった計画自体はよいが,これを「AさんがBさんを必ず助けに行く」ことととらえてしまうと,助かることが可能だったAさんまでが犠牲になってしまうことにもつながりかねない.
 
 「要支援者を見捨てるのか」「最後の1人まで見逃すな」といったご意見もあろう.しかし我々は東日本大震災で,消防団員254人,民生委員56人,警察官50人が死亡(消防庁資料など)したという,悲しく厳しい現実を見てしまった.すべてが「要支援者を助けるための犠牲者」とは言えないが,「支援する人」が多数亡くなったことは重く受け止めなければならない.
 
 まず何よりも重要なのは「支援する人」も含めた各自の安全確保である.2006年に全国社会福祉協議会が刊行した「民生委員・児童委員発 災害時一人も見逃さない運動実践の手引」にも「危険な状態の中で要援護者の救援を委員自らが行なうということではありません」とある.災害対策基本法でも「災害応急対策に従事する者の安全の確保に十分に配慮して、災害応急対策を実施しなければならない」とある.
 
 「命をかけて助けに行くことが基本」であってはならない.また,安全確保策は極力制度化しておく必要がある.「支援する人は各自の判断で退避」では「自分の判断で見捨ててしまった」と悔いを残すことになりかねない.簡単なことではないが,理想(形式)に陥らず,現実的な対策の検討が重要だろう.
 

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