2018年5月21日 (月)

気象庁「地方公共団体防災担当者向け気象防災ワークショッププログラム」

同日発表の「スパコンで予報改善」の話題と異なり,全く注目されなかったみたいだけど,5月16日に気象庁が「地方公共団体防災担当者向け気象防災ワークショッププログラム」を公開しました.本件について,普段怖くてあまりしていない「監修」という立場に加わりました.

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同プログラムの概要説明 https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/jma-ws2/docs/00_about.pdf 中に私のコメントが載っていますが,「軽い気持ちでワークショップなんかやるんじゃねえ」みたいなひどいことが書いてあります.
 
このプログラムは,「土砂災害編」「中小河川洪水災害編」の2種類が用意され,それぞれについて運営マニュアル,事前学習資料,当日の教材や進行のためのスライドが用意されているものです.
 
運営マニュアルより,私が重要と思うことを挙げておきます.「気象防災ワークショップは防災気象情報や災害対応などの技術的な知見に基づいており、人の命にかかわるテーマに関する議論を行うことになるため、ワークショップの実施にあたって技術的な知見からの助言が不可欠です」
 
私は「防災ワークショップ」的な営為に対して批判的です.無論メリットも少なくないのですが,そこにいる「みんな」だけで盛り上がって,科学的,技術的,社会制度的に適切で無いことが「地域の総意」として固められてしまう危険性をはらんでいるからです.
 
「地域のことは住民が一番よく知っている」といった言説にも批判的です.地域の「日常」のことは、当然そこに暮らす住民が一番よくわかっているはずですが,自然災害は典型的な「非日常」の現象です.広い視点からの知見を盛り込まなければならないはずです.
 
残念ながら,「全国各地域の現場において,広い視点から災害・防災について考える」ための知見や仕組みは極めて未成熟です.このワークショップ,まだまだ成長途上のものとは思いますが,一つの試みではあろうかと思います.
 
言うまでもなきことかとは思いますが,私は「監修」者にすぎませんので,このワークショッププログラムは,構築に関わった多くの方々の取り組みの成果です.厳しい日程の中取り組まれたみなさまに頭の下がる思いです.

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2018年5月 9日 (水)

石巻市大川小学校災害 石巻市が上告方針との報を聞いて

大川小学校を巡る裁判は,5月8日に石巻市議会が,最高裁への上告を承認する議案を賛成多数で可決し,上告の方向に向かうことになった.控訴審判決については
に雑感を挙げたが,上告の方向となったことを受けて,追記をしておきたい.
 
本件に関し,被害に遭った方々の気持ちを考えるといたたまれないものがあり,このような争いが長引くことが良いことだとは思えず,何らかの解決の道はないものかと思う.
 
その一方で,ハザードマップや被害想定という情報に対する捉え方や,個々の現場における平時・災害時の対応を巡る現実の状況を考えると,今回の上告によって,さらに検討が加えられることは,今後の防災対策を考える上で重要かとも思われる.
 
控訴審判決は,事前に予見すべきだったのは東日本大震災の津波ではなく,震災前に公表されていた想定宮城県沖地震による津波であるとしているが,むしろそれならばなおさら被害想定やハザードマップから読み取れる「予見可能性」について,震災後の日本人の「常識」を踏まえて幅広く認めたものと思われ,現代の知見(としてもかなり高度な)で,過去の人の行動を裁いたものとして,どうしても違和感が拭えない.
 
防災上の計画は何らかの情報を目安にしなければそもそも作ることが難しい.ハザードマップや被害想定はそのための一資料である.ハザードマップが完璧なものではないことを理解することは必要だが,ではどの規模の現象まで想定して備えれば妥当なのか(現時点はともかく震災前の時点で妥当だったのか),控訴審判決を読むと戸惑いを感じる.
 
自然災害に関する予測は不確実性が高く,被害の有無が偶然の結果であることも少なくない.自然災害に対して「確実な安全性の確保」ができるように考えること自体,自然の脅威に対する過小評価になるのではなかろうか.災害時に,故意に対応を阻害したようなケースは別として,自然災害による被害の結果責任を組織や個人に対して問うこと自体も難しいのではないか.
 
なお,控訴審判決をみるところ,震災前の被害想定,津波シミュレーション,防災計画の構築や読み取り方について,被告・原告側の解釈が行き違っており,双方の主張ともに,筆者には十分理解できないところがあった.特にシミュレーションについては私の専門から外れ,微妙なところでもあり,具体的な言及はできないが,津波の被害想定に関する技術的な専門家の知見をもっと聞きたいと感じた.この点については,もう少し慎重に検討した方が良いように思われた.
 
上告審の結果の如何に関わらず,控訴審判決の内容が防災に関わる現場に与える影響はかなり大きいだろう.まずはマニュアル作り・防災計画作成などが対策として進められるだろうが,この判決で求めているような高度な判断は,ちょっとした講習で「心構え」を聞き,「みんなで考える」ような方法では全く対応できないだろう.一般的な教職員は無論のこと,県や市町村の防災関係職員も,現時点であってもこうした判断力を身につける機会が十分だとは言えない.
 
いずれにせよ、ちょっとした工夫や、単なる指針の策定などだけでは解決するものではないだろう。たとえば自然科学・社会科学などの幅広く高度な専門知識を持った人材(1人ではなくチーム等も含め)を多数育成・雇用することなども考えられるが,一般に人材育成や,継続的な確保への新たな予算支出は困難も多い.いずれにせよかなりの程度の経費と時間が必要だとおもわれる。そうした負担に社会全体として耐えられるか、考えていかなければならないと思う。
 
本件に関しては、相反する様々な考え方があるかと思います.当方のような考えを見るだけで不快だと思われるかもしれません.あくまでも,一つの考え方として申し述べているものであることをご理解いただければ幸いです.

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2018年4月27日 (金)

石巻市大川小学校災害に関する控訴審判決(仙台高裁)の判決から思うこと

大川小学校災害に関する控訴審判決は,東日本大震災後に大きく変化した現代の感覚で,当時の人の行為を裁いたもので,きわめて強い違和感を覚えた.判決が求めている判断は,現代においてもかなり高度なものであり,今後社会全体として対応していくことが現実的に可能なのか,強い疑問を感じた.

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●はじめに
 4月26日に仙台高等裁判所で出された,東日本大震災時の大川小学校での人的被害についての判決文を入手する機会を得たので,一読しての印象を書き留めておきたい.
 
 なお筆者は,災害情報に関する研究者ではあるが,法律や教育行政に関する専門的知見は持たない.災害や防災に関わる研究者として,また,災害後に場合によっては責任を問われる側になり得る国民の視点からの感想である.
 
 筆者は,災害時の「管理者側」の責任を問う訴訟に関して,上記のように,法律専門家ではない立場から関心を持っており,近年の関連判決に際しては,いくつか感想をまとめている.
 
宮城県山元町の自動車学校での津波犠牲者に関する訴訟の判決文を見て思うこと
災害に伴う犠牲-人ごとでない責任論
大川小学校災害に関する仙台地裁の判決から思うこと
釜石市鵜住居地区防災センターでの災害に関する盛岡地裁の判決から思うこと
東松島市野蒜小学校での災害に関する仙台高裁の判決から思うこと
 東日本大震災に限らず,自然災害によって人々が犠牲となることは大変痛ましく,ことに小学校のような,本来安全であるべき場で多数の子ども達が犠牲となることに対しては言葉がない.
 
 しかしながら,不確実性の高い自然災害に対して,災害発生時にいわゆる「管理者」側(個人は無論のこと組織に対しても)の対応の責任を強く問うことは,社会全体として現実的では無いのではないか,と考えている.
 
●訴訟の概要
 本件は,東日本大震災時に,宮城県石巻市立大川小学校において,児童74人,教職員10人が死亡・行方不明となった被害を巡って,遭難した児童の内23人の19遺族が,石巻市及び宮城県に損害賠償を求めた訴訟である.一審の仙台地方裁判所は,2016年10月26日に原告の主張の一部を認め,石巻市及び宮城県に賠償金の一部の支払いを命じる判決を言い渡している.原告,被告ともに判決を不服として控訴しており,今回の判決に至った.
 
 一審判決では,東日本大震災発生前の段階で大川小学校関係者が,学校周辺への津波の可能性を認識しておらず具体的な避難場所等を決めておかなかったことや,地震発生から15時半頃までの間に校庭にとどまったという判断については,注意義務違反ではなかったとした.15時半頃,石巻市の広報車が伝えた北上川河口付近の松林を津波が越えているという情報に接して以降は,同小学校付近に大規模な津波が到達することを予見できたとした.その上で,15時半頃以降に校庭から移動して避難先として「三角地帯」(標高約7m)を目指したことが「裏山ではなく,三角地帯を目指して移動を行った行為には,結果を回避すべき注意義務を怠った過失が認められる」とした.
 
 いわば一審では,災害発生前の対応に関しては被告側の主張を認め,災害発生時,特に津波到達直前の学校の判断については,原告側の主張を認めた,という印象だった.このためか,控訴審では,災害発生前の対応に関してが主な争点となったようである.
 
 これに対して控訴審判決は,災害発生前の津波災害に対する予見可能性を幅広く認め,災害後の事後の対応についての学校,行政側の責任を認めなかっただけで,ほぼ全面的に原告側の主張を認めたものとなった.

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●ハザードマップという情報の捉え方に対する違和感
 判決の最も基本的なポイントは,大川小学校がハザードマップで示された浸水想定区域内ではなかったが,
  1. ハザードマップで示された「津波浸水域予測についても相当の誤差があることを前提として利用しなければならなかった」ということ
  2. 感潮区域の河川と近接し,堤防はあるものの地震によって沈下し河川からの水が浸入する危険性があったこと
  3. 下流側の堤防は津波によっては停止,そこから津波が陸上を遡上する危険性があったこと
などの理由により,「大川小が本件想定地震により発生する津波の被害を受ける危険性はあった」と明確に認めたところだろう.これを認めたことが根本的なポイントとなって,危機管理マニュアルの見直しの不備や,市によるその点検の不備など,他の争点についても原告側の主張を認める結果となったと思われる.
 
 筆者は,「大川小が本件想定地震により発生する津波の被害を受ける危険性はあった」と,震災前の時点で予見可能であったとの判断には,強い違和感を覚えた.ハザードマップは,震災前は無論のこと,現在においても,各種防災計画を策定する上で基本となる情報であり,その内容が各種計画に反映されることは当然のことである.その内容にもとづいた防災計画(大川小を津波の際の避難所としていたことなど)が不適切であったという判断は納得ができない.
 
 ハザードマップが不確実性を持つ情報であり,それを鵜呑みにすべきではないということは,ハザードマップの一般的な注意事項として,ほぼ必ず注記されていることである.しかしそれはより応用的かつ一般的な留意事項であって,だからといって,ハザードマップの記載されていない場所も危険であると当然理解すべきであり,具体的に対策を考えておかなかったのは誤りであったかのようにいうのは,極めて非現実的な指摘であると思う.ハザードマップの示されない危険を想定するとして,では,具体的にどこまで想定するべきというのか.
 
 そもそも,上記1~3のような知見は,東日本大震災後の現代日本人にとっては理解しうることだろうが,東日本大震災以前の段階で十分に理解されていたとは到底言えない.東日本大震災以前にこうした知見が存在しなかったわけではなく,そのことを判決は常識であるかのように取り上げているが,かなり高度な専門的知見であったと筆者は考える.この点については,現代の知見(としてもかなり高度な)で,過去の人の行動を裁いたものであり,強い違和感を覚える.
 
●学校関係者は地域住民より高いレベルの津波に対する認識を持つべきであったとの指摘に対する違和感
 児童らの被害が注目されがちであるが,大川小学校の立地する石巻市河北町釜谷地区は,住民の犠牲者率自体が,他地区に比べ著しく高かった地区でもある.大川小学校事故検証報告書(大川小学校事故検証委員会,2016)によれば,被災当日釜谷地区に所在した住民及び来訪者の死亡率は84%とされている.これは今回の震災による犠牲者率として極めて.例えば,市町村別で犠牲者率が最も高かった市町村の一つである陸前高田市では,浸水域人口に対する犠牲者率11%,500mメッシュごとの地区人口に対しても最大で30%ほどである(筆者調査).大川小学校およびその周辺は,地域を知る住民自身にとっても,迷うことなく避難先を選択,移動することが難しい立地であったと思われる.
 
 しかしながら判決は,こうした状況についても否定的な判断をしている.たとえば,「校長等は,第1審被告市の公務員として,本件安全確保義務を遺漏無く履行するために必要とされる知識及び経験は,釜谷地区の地域住民が有していた平均的な知識及び経験よりはるかに高いレベルのものでなければならない」としている.その上で「釜谷地区に津波は来ないという釜谷地区の住民の認識が根拠を欠くものであることを伝えて説得し,その認識をあらためさせた上で,大川小の在籍児童を避難させるべき第三次避難場所の位置,避難経路及び避難方法について調整を行うことは十分に可能であった」としている.
 
 判決が指摘しているような判断は,防災について専門的な知見を持たない一般市民(現実には学校教職員も大きく変わるものではない)のレベルから見れば,極めて高度なものである.たとえば,数時間程度の講演の聴講などというもので修得できるような知識ではない.一般に「防災研修」で行われている,災害に対する心構えや助け合い,ワークショップ等の「演習」での教育内容などとは段違いに高度な(目安としては大学院レベルの)自然科学的基礎知識に加え,実務的な災害に対するを知識を十二分に修得していたとしても,果たして自信を持って判断に至れるかどうか,というくらいの水準を求めている.結果がわかっていれば何とでも言えるが,事前に的確に判断できるような水準の話とは到底思えない.
 
 また,学校関係者の防災に関する知識経験は一般住民より高いものでなければならないと判決は指摘するが,現実には,東日本大震災の前後を通じて,そのような知識経験を積むような機会は,学校の教職員は言うまでもなく,市町村防災担当職員ですらほとんど確保されておらず,そのための予算措置もほとんどなされていない.仮に多少の予算措置があったとしても,このような高度な知識経験の習得は,上記のように,数時間程度の研修などでは到底及ぶものではない.このような実情を,この判決は全く無視しており,憤りすら覚えるものである.
 
●今後の広く各地における防災対策に対して懸念されること
 そもそも東日本大震災による多数の被害は,まず第一義的には,それまでに具体的に考えられているものよりもはるかに大規模な現象(津波)が生じたことによるものであり,仮に高度な教育を受け,知識経験を有していたとしても,事前に今回のような事態を具体的に想定し,より安全側を見越した防災計画が立てられていたかはかなり疑問であり,少なくとも,当然できたはずだと言えるようなものではないと考える.
 
今回の被告が行政機関であり,学校関係者であったことから予見可能性が一般住民(個人というべきだろうか)より強く認められたようである.しかし,その線引きはどのあたりとなるのだろうか.いわゆる「管理者」側の組織・個人は,なにも行政関係とは限らない.民間企業,任意団体など,国民のかなりの割合が「管理者」側となる可能性がある.大規模災害の発生も想定される中,多数の「管理者」組織・個人の責任を強く問うやり方は,社会的に本当に対応可能なのだろうか.
 
 自然災害に対して,様々な対策を講じ,最善を尽くすことが重要であることは言うまでもない.また,現実に責任を問われる立場の人たちからも犠牲が出ている現実から,現場において最善が尽くされなかったとはとても思えない.人知の及ばないことも生じやすい自然災害に関して,最善を尽くした結果,結果的に厳しい事態が生じたことについて,「だれかが悪いことをしたから被害が生じたのだ」「対応できたはずではないか」と,事後的に断ずることは,厳しい事態を改善する上での事実把握や記録に対して妨げとなり,かえっていわゆる「教訓」を埋もれさせてしまうことにならないだろうか.
 
【追記】
 5月8日に石巻市議会が上告賛成の議決を行ったことを受けて下記に追記をしました.

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2018年2月28日 (水)

災害時のツイッター「ハッシュタグ」やツイートについて思うこと

2018年の福井での大雪に関連して,ツイッターのハッシュタグが有効,というような話を聞くので,災害時のハッシュタグについての考えをメモしておきたい.
 
一般論だが,ハッシュタグは,多数のツイートの中から特定の話題に関係するツイートを検索しやすくための手法の一つであり,福井での大雪のようなケースでもその意味での有効性は当然ありうる.一方で,自然災害の場合は,突発的・自然発生的にハッシュタグが生まれてくるので,よく似たハッシュタグが複数並行して使われることも考えられ,またそもそもハッシュタグを使わない,ハッシュタグが使われていることに気がつかないユーザーも少なくないと考えられ,有効性には限界もある.そもそもツイートは本文の検索も容易なので,ハッシュタグを使わなければ関連するツイートを探しようもないというわけでもない.
 
ハッシュタグ以前に,自然災害では統一的な名称がかならずしも定まらないという課題もある.特に顕著な現象に対しては気象庁が命名をすることがあるが,福井の大雪では命名されいない(濫発すべきものではないと思うので,これは妥当と考えている).気象庁の命名がない局地的な災害では,各地域でメディアや行政機関が事実上の標準となる名称をつかうことがよくみられる.何らかの形で,標準的な名称を決めることは,その後の記録の整理や後世に教訓を伝える上でも重要なことと思う.標準的な名称が定着すれば,ハッシュタグや,ツイートの本文でも積極的に取り入りられることが予想され,有効だと思う.
 
災害時のツイートについて注意しなければならないことは,ハッシュタグなどよりもっと基本的なことがいろいろあるだろう.私が重要だと思うのは「自分がそのリツイートをすることが本当に必要なのか,冷静に考える」こと.災害時には,被災した地域のことが心配になり,自分にも何かできないか,という気持ちになることは当然.しかし,ツイートが爆発的に増えることにより,重要な情報が埋もれてしまい,探しにくくなってしまうといったことが考えられる.リツイートしたことで,自分も被災地のためにささやかな貢献をした,という気持ちになることもよくわかるが,むしろその善意が逆効果となることもある事に注意が必要.
 
また,災害時には不確かな情報や,誤った情報がツイートされることもよくある.「これは大変だ」「みんなが知った方がいい」と思うツイートに出会ったら,その情報は本当に確かな情報なのか,よく考えることが必要.公的機関や企業以外のツイートの場合,そのツイートのアカウントが,これまでにどのようなツイートをしているかを見て,信頼できるアカウントかどうかを見極めるといった方法も考えられる.
 
自らがツイートする場合は(個人でも組織でも同様),まずその情報に関する場所,時刻,情報源などを明記することを心がけたい.また,なるべく具体的な記述を心がけることも重要.たとえば「川が増水しています」と書くより,「○○橋の50cmくらい下まで水が流れています」と書く方が情報としての価値が高まるだろう.

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2018年2月 6日 (火)

あらためて災害時の死者・行方不明者の匿名化について

数年前から顕在化した難しい話「災害時の死者・行方不明者の氏名を公表するかどうか」という件.草津白根山の噴火に伴う災害でもあらためて課題となったことが報じられている.
 
(Media Times)「県が氏名発表」認識にズレ 草津白根山噴火、死亡の自衛隊員:朝日新聞デジタル
 
この記事中に私のコメントもあるけど,私は「死者・行方不明者の氏名は特別な事情が無い限り基本的には公表」だと思う.災害発生時には多くの人が自分の関係者の安否情報を求める行動を起こすわけで,その際の混乱や,場合によっては生じうる不確実情報などを軽減するためにもその方がいいと思う.
 
災害時には感情的に受け入れられない人もいると思うけど,自然災害の死者等の氏名は,個々の災害を教訓として後世に残す記録としても重要な情報.後世の人が,過去の災害について整理・検討する際に,亡くなった方のお名前は,各種資料を横断的に検討する際の重要な情報となる.
 
これはわかる人にしかわからない話だけど,災害時の死者名等匿名化が徹底されたら,「君の名は。」で瀧君が図書館で糸守町の隕石災害犠牲者名簿を参照して三葉達の名前を見つけて衝撃を受けるシーンは成り立たないかも.「後世の人が,過去の災害について整理・検討」というのはそんな感じのこと.
 
災害時の死者等匿名化の「空気」は,個人情報保護に対する過剰反応の一つとも思うけど,犠牲となった人の周辺に生じる「メディアスクラム」が嫌われている面もあるのでは,とも思う.犠牲者の「人となり報道」はメディアの常道かとは思うけど,時代に合わなくなっているのかも.
 
ツイートとか,ヤフコメとか見ていると,「自然災害の死者等の名前は公表するな」という声を強く感じるのだけど,
 
Yahoo意識調査「災害時の行方不明者の氏名、どうすべき?」
 
では「原則、公表すべき」が7割強というのは意外だった.主張したい人が回答するタイプの調査法なので,もっと「公表するな」が多くなると思ったのだけど.
 
この件については以前ブログにも書きました.
 
時評=災害時の行方不明者-「匿名化」行き過ぎでは
 
岩手日報の連載 岩手日報企画・特集 「あなたの証し 匿名社会と防災」
も考えさせられる.
 
この件自体が研究のテーマになってきたかもしれない.

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2018年1月 3日 (水)

2018年 新年のご挨拶

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謹んで新春のご挨拶を申し上げます.

よい展望はなかなか描けませんが,何とか今年も防災研究に携われるよう,予算と時間の確保に邁進する所存です.ご指導,ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます.

(写真:JR大船渡線BRT細浦駅)

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2017年9月 1日 (金)

風水害時の土嚢積みに関する懸念

少し必要があって,「風水害時に土嚢積み作業をしていて死亡した人」を数えてみました.基礎資料は当方が整備しているの風水害犠牲者資料 http://www.disaster-i.net/research4.html で,2004-2016年の761人が対象.
 
当方では「移動や避難の目的ではなく,自らの意志で危険な場所に接近したことにより遭難」を「能動的犠牲者」と定義しており,この形態の犠牲者が下図に見るように全体の24%.「土嚢積み」はこの一部に当たる.

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「能動的犠牲者」をさらに分類すると下図のようになる.40%は何らかの防災行動を取っていたもの.ただしそのほとんどは個人的な行動.「土嚢積み」はこの一部で,少なくとも9人確認された.水防活動による土嚢積みと思われるケースはなく,いずれも個人的な行動らしい.

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「土嚢積み」による犠牲者,761人中9人なので格別に多いわけではないが,要注意な行動の一つであるとは言えそう.少なくとも「水害に備えましょう!」と言って,土嚢積みをオススメすることは私はしたくはない.水には立ち向かうのではなく,逃れましょう.
 
なお,「土嚢積み」については,
  • 水防団による組織的な水防活動として,堤防上に積む
  • 個人宅で,雨が降り始める前の段階で予防的に積む
といった場面での有効性を否定するものではありません.雨が降る中,すでに周囲を洪水が流れているような状況下で積むようなことを強く否定しているものです.土嚢積みは「浸水したら対策としてやるべきこと」と受け止められている印象があり,そのイメージはまずいと考えます.

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2017年4月28日 (金)

東松島市野蒜小学校での災害に関する仙台高裁の判決から思うこと

 4月27日に仙台高裁で出された,東日本大震災時の宮城県東松島市野蒜小学校に関係する人的被害についての判決文(要旨)を入手する機会を得たので,一読しての印象を書き留めておきたい.
 
 本ブログでは繰り返し書いていることだが,筆者は災害情報に関する研究者ではあるが,裁判や法律に関する専門的知見は持たず,災害訴訟について体系的な知識も持ち合わせない.あくまでも災害に関する研究者としての感想であることをお断りしておきたい.
 
●訴訟の概要
 本件は,
  1. 宮城県東松島市立野蒜小学校体育館に避難して結果的に津波により亡くなった付近の住民の方(2人,以下公開されている一審の判決文に従いD,Eとする)
  2. 同小学校の児童で,下校後いったん同小学校に避難し,後に同級生の保護者に引き渡されて帰宅し,自宅で津波により亡くなったとみられる児童1人(以下同F)
のそれぞれの遺族が,同小学校を管理する東松島市を被告として行った訴訟である.一審の仙台地方裁判所は,DとEに関しては原告の訴えを棄却,Fについては東松島市側の責任を認める判決を出している.DまたはEの遺族(どちらか確認できていない)および東松島市が控訴し,二審の仙台高等裁判所は,いずれの控訴も棄却し,一審判決が支持された.
 基本的には一審通り,部分的には一審より踏み込んで,より厳しい判決となったと感じている.
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●野蒜小学校での被害(D,E)について
 一審の判決文からはまず,DとE,Fについて小学校側が,津波により犠牲となり得ることを事前に予見できたかどうか,という点が主な争点の一つとなったと読み取れる.
 
 DとEが避難した野蒜小学校は,震災前に公表されていた津波浸水予測図では,浸水想定区域外にあり,津波の際の避難場所ともなっていた.一審判決は地震発生後の出された津波関係の情報などを最大限入手できたとしても,同小学校に津波が到達することを具体的に予見できたとは言えないと判断している.二審判決はこれをそのまま認めているようである.
 
 一審判決は,校内のテレビ・ラジオが停電で使用できなかったとしても,カーラジオ,防災無線,携帯のインターネット,ワンセグ等で情報収集は可能だったと判断しており,二審判決もこれを認めたようである.地震直後の混乱した「避難所」管理に当たった小学校教職員の姿を考えるといささか現実的でない情報入手の可能性を認めていることに違和感があるが,同小学校に人的被害をもたらすような規模の津波が到達することを具体的に予見できたわけではないとの判断は,共感できる.
 
●学校に避難した住民に対する学校管理者側の義務について
 あるいは筆者の誤読かもしれないが,二審判決には一審では明記されていなかった,学校に避難した住民に対する学校管理者側の義務についての記載があったように思われる.
 
 二審判決は,「避難した住民に対する応急の救護に協力する責務を負っていた」とした上で,住民は「自己の責任において自ら適切な避難行動をとり得る」とし,「学校施設内に児童らが存する場合においては,児童らに対する安全確保義務に加えて,当該施設の管理者の地位にあることから当然に避難者らを誘導する義務まで負っていたと解することは相当でない」と明記している.
 
 学校が避難所であるからといって,そこに避難した住民の被害に対する,学校管理者側の結果責任は限定的であると読み取れ,これは管理者側にとって現実的な示唆となるように思われる.
 
●いわゆる「児童引き渡し」の判断について
 一方Fについては,自宅は津波浸水想定区域外にあったと見なせるが,帰宅途中には津波浸水想定区域内を必ず通過する位置関係にあったこと,帰宅しても保護者が在宅するかは不明だったこと,Fが9歳の子どもだったことを考えると,無事帰宅したとしても帰宅後に津波浸水想定区域内に移動するといったこともあり得たことなどから,Fが津波に見舞われる可能性は予見可能で,小学校側の判断は過失が認められると一審は判断した.二審判決もほぼこれを認めたようである.
 
 しかし,この判断に従えば,小学校側は児童の自宅位置ばかりでなく,帰宅経路上における災害の危険性を,全教職員が完全に把握し,かつ事態に応じて予測もしなければならないということになるのではなかろうか.
 
 また一審では「(学校側が)予見すべき結果は,本件津波がFの自宅まで到達することではなく,Fが災害時児童引き取り責任者に確実に引き渡されてその安全が確保されるまでに本件津波に巻き込まれてその生命または身体に危険が及ぶことで足りる」としていた.一方二審では「予見すべき対象は大規模災害時に発生しうる様々な危難に遭うことで足り,本件津波に巻き込まれて死亡することまで具体的に予見する必要はない」としており,一審よりさらに予見すべきことを広く認めたように思われる.
 
 無論,こうした予見ができるに越したことはなく,最善は尽くさねばならない.しかし,2011年当時の平均的な日本の学校現場において,あるいは現代においても,このような予見ができることが「当然」であり,できなければ過失であるという考え方は,筆者には納得できない.
 
 今は津波のことばかりが注目されているが,ありうる現象としては,洪水,土砂災害,火山活動など,様々なものがある.それらすべてについて,全学校が,全児童生徒について把握,予見することが現実に可能なのだろうか.
 
 なおFが引き渡されたのは「災害時児童引取責任者」ではないが,Fの同級生の保護者であった.一審は「災害時児童引取責任者」ではない者に引き渡したこと自体を完全に否定したわけでく,引き渡すに当たり「児童の安全が確認できない限り(牛山注:災害時児童引取責任者以外の者に)引き渡してはならないという注意義務に違反した」,すなわち危険が予見できたはずだから,この者に引き渡すべきではなかった,という判断をしているように読み取れた.二審もほぼ同様の判断と読み取れる.
 
 しかし,予見可能性の有無にかかわらず,災害時に,同級生の保護者から児童を引き取って帰宅させる旨の申し出を受けて,それを拒否しなかったことを過失と言うべきなのだろうか.さらに酷なことを言えば,津波浸水想定区域の情報や,地震発生後の津波に関する情報は,学校関係者だけに限定公開されていたわけではなく,国民誰もが知りうる情報だった.その状況下で,小学校側に一方的な過失があると言えるのだろうか,という思いも生じうる.
 
 筆者は小学校側ではない誰かの責任を問うべきだと思っているのではない.このように,誰かの「過失」を問うこと自体が,今後の災害時の対応を考える上で,本当に社会的に対応可能なのか,という懸念を持っている.
 
●災害時の管理者側の責任を強く追及することに対する懸念
 これまでの東日本大震災を巡る判決の都度表明してきたことだが,不確実性が非常に高いという特性を持つ自然災害に伴って生じた人的被害について,災害後の知見を元に予見可能性を幅広く認め,管理者側にあたる組織・個人の災害時(及び平時の備えにおける)の緊急的な判断・対応について,結果責任を強く問うありかたには,今後の防災対策を推進する上で本当にそれでよいのかという懸念を捨てきれない.
この点については
釜石市鵜住居防災センター関係の判決について
石巻市大川小学校関係の判決について
などですでに述べているので,詳細は省略する.
 
●災害時は児童生徒は「引き渡す」ことが原則ではないのでは
 以下は,過去及び今後の災害時の学校側の対応について「こうすべきだった」「こうすべき」という意味での話では無く,今後の防災対策を考える上での一つの考え方としてのコメントである.
 
 学校現場における災害に関する「訓練」の一つとして,近年はしばしば「引き渡し訓練」が行われる.このこと自体は無論問題ではないが,こうした訓練の準備,実施が,「災害時には児童生徒を家族に引き渡すことが大原則」であるかのようなイメージに繋がらないか懸念が持たれる.
 
 学校は多くの場合鉄筋コンクリート造の3階以上で,一般家庭に比べれば多くの災害に対して耐災害性を持っていると考えられ,現に避難場所となっていることも多い.そうした「相対的に安全な場所」から,安全性が必ずしも高くない自宅に対して児童生徒を「引き渡す」ことが,常に最善とは限らない.
 
 無論,学校自体の各種災害に対する安全性を確認しておくことが先決ではある.その上で,災害時の対応は常に「引き渡し」ありきではなく,学校にとどまることも選択肢の一つとして,学校,家庭の双方が考えておくことも重要なのではなかろうか.

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2017年4月22日 (土)

釜石市鵜住居地区防災センターでの災害に関する盛岡地裁の判決から思うこと

 4月21日に盛岡地裁で出された,東日本大震災時の岩手県釜石市鵜住居地区防災センターでの人的被害についての判決文を入手する機会を得たので,一読しての印象を書き留めておきたい.
 
 なお筆者は,災害情報に関する研究者ではあるが,裁判や法律に関する専門的知見は持たず,災害訴訟について体系的な知識も持ち合わせない.あくまでも災害に関する研究者としての感想であることをお断りしておきたい.

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 鵜住居地区防災センターでの被害は,本来の避難場所でない施設が誤認されて避難者が集まり,多くの被害を生じた側面があり,極めて痛ましいできごとであること,こうしたことが繰り返されないよう社会全体として努めていかなければならないことは言うまでもない.ことに,同センターと長内川を挟んで対岸側に当たる釜石東中学校・鵜住居小学校では,児童生徒が率先して避難行動をとり,「釜石の出来事」などとして広く知られることになった被害軽減がはかられていることも考え合わせると,いたたまれない気持ちになる.
 
そのような状況下で厳しい言い方になることは承知しているが,本判決で示された判断は総じて現実的で,共感できるものだった.
 
●予見可能性について
 震災前に公表されていた過去の津波浸水実績の情報から見て,防災センター付近へ津波が到達しうることについては予見可能な範囲だと言っていい.しかし,浸水実績域の縁辺部でもあり(津波は箱のような形態で到達するのではなく陸域の奥に行けば行くほどその高さ=浸水深は浅くなる),シミュレーションにもとづく浸水想定区域からは離れていたことなどを考えると,2階屋上に達するような津波が来ることを確実に予見可能だったとは言えないと思われる.「過去に津波による浸水の実績がある」ことは「その場所で建物の2階以上にも達する浸水深の津波がありうる」ことを意味するものではない.
 
 地震発生後の時点での予見可能性についても,大津波警報や,予想される津波の高さ3m,6mという情報を覚知したとしても,それによりハザードマップで示されていない範囲にまで,建物2階を越えるような規模の津波が到達する可能性を理解することが,2011年3月11日時点の一般的な国民において「当然わかったはずだ」と言えるような状況になっていたとは思えない.ハザードマップ等には,一般的な注意事項として,ハザードマップの表記を越える現象も起こりうることが注記されていることは,震災前の時点でもよく見られたと言っていい.しかし,それは一般的な基礎知識として注意を喚起しているものであり,「当然誰もが理解していたこと,しているべきこと」だとは言えないと筆者は考える.
 
 判決では,過去の浸水実績の情報があることを挙げ「明治三陸地震及び昭和三陸地震の際,本件幼稚園付近(牛山注:防災センターに隣接)にまで津波が到達した可能性は否定できない」としつつも,その後の防潮堤整備と「(前略)津波浸水予測図では,前記各地震と同等の地震が発生した場合であっても,本件幼稚園周辺は浸水しないと想定されていた」ことを挙げて,「大津波警報(3m)が発表された時点(牛山注:14:50頃)で,津波が本件幼稚園に到達する可能性を予見できたとは認めがたい」としている.
 
 ただし15:14頃の大津波警報(6m)については,「明治三陸地震と同等の地震が発生した場合に鵜住居地区に到達すると想定されていた津波の高さは少なくとも6m以上と予想されていたことに照らすと,本件大津波警報(6m)の発表により(中略)津波浸水予測図の想定を上回る規模の津波が発生することが予見し得た可能性が全くないとはいえない」と,低いものの予見可能性は認めている.ただし,同地区への津波到達が15:16頃と推定されていることから,予見できたとしても,現実的な対応は困難だったろうとの判断がなされている.概ね共感できる.

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●防災センターが津波の際の避難場所でないことの周知について
 同センターが津波の際の避難場所ではないことが隠蔽されていたわけではなく,津波の際の避難場所は市全体の広報,地域版のお知らせ,ハザードマップなど,一般的に考え得る方法での広報が複数回にわたってなされていた.
 
 判決では,「鵜住居地区における一次避難場所として鵜住神社境内ほか3か所を指定し,全戸配布の「かまいし生活べんり帳」において,これらの名称や所在地を本件津波予測図上に示すなどしていたほか,各種広報誌や冊子を用いて,避難場所等に関する広報活動を実施していたのであり,鵜住居地区の住民に対し,避難に関する事項について周知をしていたものと認められる」としており,筆者には共感できる.そんな方法では徹底しない,といった考え方ももっともだが,これらの方法をとっていたことが周知を怠った重大な過失だとまでは言えないと筆者は考える.
 
 震災前の2010年5月,2011年3月に実施された津波避難訓練で同センターで避難訓練が行われたこと,これが訓練参加率を高めるための工夫として地元から提案があり,市が了解したものであったと,同市の検証報告書でも認められている.この訓練のあり方が,同センターが津波の際に避難すべき場所であるとの誤認に繋がった可能性は否定できないと筆者も思う.しかし,地域からの提案を踏まえたもので市が特に指示をしたわけではないことも考えると,この訓練のあり方について,市に一方的な責任を負わせることが適切だとは思えない.
 
 判決では,「上記各訓練における本件センターの利用に関し,被告と前記町内会の間でどのような合意がされたかは,全く明らかでない」とし「被告が前記のような了承をし,結果的に相当数の住民が本件センターに参集した事実のみをもって,被告が本件センターを,他の一次避難場所と同様,津波警報等が発表された際に避難すべき場所として取り扱うことを許容したとは認められない.そうすると,被告が,本件センターが一次避難場所であるとはいえないから,市長が本来の一次避難場所に加えて,本件センターが一次避難場所でないことまで周知すべきであったとはいえない」としており,筆者には共感できる.
 
 判決が,津波避難場所ではないセンターで津波避難訓練を行うことを市が了承したことで,市が住民を「誤解させた」のではないと認めたことは注目される.この避難訓練で住民間に誤解が生じ,その結果として適切でない避難場所に人が集まり多くの犠牲者が出た可能性は高いと筆者も考える.しかしながら,それは「誤解【が】生じた」のであり,非常に悲しく,残念なことで,今後の防災対策の強い教訓としなければならないことではあるが,「誤解させた」として,特定組織・個人の結果責任を追及すべきことではないと筆者は考える.
 
 また,「市が了承した」すなわち,地域の提案が元になり,市はそれを認めた立場であることにも関心が持たれる.災害による人的被害について組織・個人の結果責任を強く追及するのであれば(それを筆者はよいことだと思わない),その責任は一方的に「行政」に向けられるのではなく「地域」にも向けられうることは,よくよく考えておかなければならないと思われる.
 
●災害時の管理者側の責任を強く追及することに対する懸念
 不確実性が非常に高いという特性を持つ自然災害に伴って生じた人的被害について,災害後の知見を元に予見可能性を幅広く認め,管理者側にあたる組織・個人の災害時(及び平時の備えにおける)の緊急的な判断・対応について,結果責任を強く問うありかたには,今後の防災対策を推進する上で本当にそれでよいのかという懸念を捨てきれない.
 
 東日本大震災発生時とは異なり,現在では,非常に大きな規模の外力(津波など)を考慮した被害想定,ハザードマップ等が作成され,様々な手段で周知が図られている.かなり大規模な現象であっても,発生後に「このようなことが起こるのはわかったはずだ」と言えるようになってしまっている.
 
 想定情報が作成され,広く周知も図られている状況下では,もはや「想定していなかった,周知していなかった」と行政側を責めるだけという考え方は一方的で,我々国民の側も「周知されていたのだからわかっていたはずだ」と捉えることも可能になるのではないか.
 
 また,いわゆる「管理者」は,なにも行政機関とは限らない.民間企業,任意団体など,国民のかなりの割合が「管理者」側となる可能性がある.大規模災害の発生も想定される中,多数の「管理者」の責任を強く問うやり方は,社会的に本当に対応可能なのだろうか.
 
●避難所・避難場所に対する国民的な理解も重要
 鵜住居地区防災センターは,避難場所としての機能がわかりにくかったことが問題としてあげられている.現代では,「どんな災害時にも同一の避難場所に避難する」という画一的な考え方に問題があることがひろく認識され,災害の種類別に避難場所を選定することが国レベルでも進められている.これは同センターでの被害もその背景の一つとなった改善の方向ではある.
 
 一方で「この避難場所は××の時には使用するが××の時には使用しない」といった方針が,一般住民にとってわかりにくい,浸透しにくいといった見方もある.
 
 「わかりにくいので危険な場所には一切避難所を置いてはならない」といった考え方もあるが,特に地方部では避難可能な施設が限定されることも考えると,広範囲にわたって避難所がおけないことにもなりかねず,現実的ではない.「洪水土砂災害の危険性があるので,2階以上だけを使用する」などの工夫も必要になる.
 
 「災害の種類によって避難場所や避難の方法は異なることがある」ことを知り,自分の地域では,どのようなときに,どのように行動するのがよいかを,公表されている様々な情報を参考にあらかじめ考えておくことがますます重要になっている.
 
●釜石市当局に対して思うこと
 上記では釜石市に好意的なことを書いているように思えるかもしれないが,釜石市を擁護したいとは全く思わない.釜石市は,市の側の責任を大きく認め,被害が回避可能だったとまで踏み込んでいる報告書を公表している.この内容に筆者はやや納得できないものを感じているが,一つの見識だと思う.市自身がそこまで踏み込んだ見方をすでに出しているのであれば,このような訴訟に反論するのではなく,潔く原告の方達と対話したらどうですか,とは思っている.

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2016年11月 2日 (水)

「避難準備情報」の言葉の変更に思うこと

「避難準備情報」の言葉がわかりにくいので変更すべきでは,という議論があるので,筆者の考えをメモしておきたい.
 
「避難準備情報」がはじめて明文化された2005年「避難勧告等の判断・伝達マニュアル作成ガイドライン」では,「避難準備(要援護者避難)情報」と表記され,要援護者等は避難行動を開始,他の者は避難準備を開始,が「求める行動」とされていた.2005年版ガイドライン作成の背景は,2004年が10個の台風が上陸するなど風水害が多く,避難勧告発令をためらったケースや,要援護者等が犠牲となったケースが目立ったことがあったように筆者は受け止めている.
 
2005年版ガイドラインやその検討報告をみると,このときの避難準備情報は,避難勧告より早い段階でなんらかの行動を促すという意味もあったが,どちらかというと要援護者に対する支援という意味合いが強かったように感じられた.
 
なお,2005年版ガイドラインの重要事項は,避難準備情報の規定もあるが,避難勧告の客観的基準や,その発令範囲を明確化するための目安を示した点も大きかっただろうと,筆者は評価している.
 
しかし,その後も「避難勧告の発令をためらう」というケースが後を絶たず,特に2013年伊豆大島,2014年広島での避難勧告の遅れがかなり話題となった.判断基準にも課題はあったが,「避難勧告を出す」ということのハードルの高さも一因ではと議論された.「避難勧告を出す」のハードルとは,空振り批判を恐れる,避難所開設や役所内の体制立ち上げなど費用面の不安など,さまざま.
 
ガイドラインで,避難勧告より前段階に出せる「避難準備情報」がありながら「避難準備情報は要援護者向けの情報」と思われ,一般住民も含めた「勧告の前段階の情報」として活用されなかった側面も.このあたり,いくつかの災害事例を見た印象として筆者自身が持っていることだけど,もっと定量的に当時調べておくべきだったと反省している.
 
こうした教訓から,2015年版ガイドラインでは,(要援護者避難)がとれ「避難準備情報」に明快化された.また要配慮者の立ち退き避難とともに,他の者も「立ち退き避難の準備を整えるとともに<中略>自発的に避難を開始することが望ましい」とされた.
 
今仮に,避難準備情報を「要配慮者避難情報」等に変更する場合,いわば2005年ガイドラインへの回帰とも言える状況となる.しかしそうなると,避難勧告より早い段階で要支援者以外の人に注意を喚起する意味は非常に読み取りにくくなる気がする.
 
「一般向け避難準備情報」と「要配慮者避難情報」を設ける,という考え方もありうる.しかし,両者の発令基準を変えることは合理的でないと思われ,ただでさえ複雑だとされる避難関連情報がさらに複雑化することが懸念される.
 
合成して「避難準備・要配慮者避難開始情報」とするという考えもありそうだ.しかし,もともと「わかりにくい」という話から始まったのに,この言い回しが「わかりやすい」といえるだろうか.たとえばYahooの避難情報ページ https://goo.gl/1oC2gj では,避難準備情報は「避難準備」と4文字に略記され,避難指示(赤),避難勧告(橙),避難準備(黄)と色分け表示されている.「要配慮者避難情報」となったら?
 
かりに「避難準備情報」の語を変える場合,すでにある程度定着して,全国各地のハザードマップ,防災関連資料等に記載された言葉をすべて書き換え,新たな言葉を普及啓発していくという大きなコストが生じることも懸念される.避難勧告,避難指示も含めて,たとえばすべて数字で示すとかの抜本的な改定を行うならばこうしたコストも意義があるように思うが.部分的な用語変更ではどうだろう.
 
筆者も「避難準備情報」という言葉がわかりやすく,ベストな言葉だとはおもわない.しかし,「要配慮者が避難開始するという意味がわかりにくい」という理由で,この言葉だけを変えることは,防災関連情報全体としてのメリットがあまり大きくないように感じられる.
 
無論今のままでよいとは思わない.しかし,言葉を換える以外の改善策も考えてもいいのではなかろうか.意味の周知を徹底することは当然考えられる.単に「避難準備情報発令」というだけでなく,その意味を合わせてアナウンスすることを定型化するなどもありだろう.防災気象情報や河川水位情報で導入されているような,「色」を決めて表記するなどもありそうだ.
 
どうするにせよ,改善するためには,こうした思いつきの羅列ではなく何らかの根拠の積み上げが必要だろう.時間がないが,筆者自身も努力してみたい.

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