善意や熱意を批判することの苦しさ
近年の防災の現場では,「善意」や「熱意」を背景とするキーワードが多く見られます.
「自助・共助」はその代表例でしょう.要援護者支援,ボランティア,助け合いの心,思いやり・・・・ 言葉はいくらでも出てきそうです.
以下のフレーズをどう思われるでしょうか.
「ボランティア」で,「住民主体」で,「地域の防災意識を高める」
全く正しい.議論の余地もない.そう思われる方も多いかもしれません.どこがいけないんだ,この考えがおかしいなんて,どうかしているんじゃないか.そう思われるかもしれません.
「住民主体で熱心に地域防災に取り組むことを否定するなんて,とんでもないヤツだ」
と思われるかもしれません.
しかし,それでもわたしは,上記のような考え方,スローガンを,全面的に賞賛することはできないと考えています.
防災に関わる「善意」や「熱意」は,言うまでもなく,全面的に否定されるべきものではありません.しかし,「(建設的)批判が許されないもの」,「いいことなんだから賛同・協力するのが当たり前なもの」であってはならないと思います.
防災に関わる取り組みに「正解」はありません.しかし,「誤り」はあり得ます.「善意」に基づき,「熱意」を持って取り組まれたことであっても,それが「誤り」であれば,批判・修正されるべきものでしょう.地域防災の取り組みは,善意や熱意,「高い防災意識」を競い合うものではありません.
防災と言っても,非常に幅広い対象があります.しかし,もっとも単純化して,最も重要な問題を抽出するとすれば,地域防災の取り組みとは,「善意,熱意,意識」といった「心の問題」ではなく,「災害による被害軽減を図る」という物理的,即物的な問題なのではないでしょうか.
善意を持つこと,熱意を持つこと,思いやりの心を持つこと,意識を高めること.これらはけっして間違いではありません.しかし,それらは「目的」ではないはずです.「目的」は「被害軽減」です.善意があっても,熱意があっても,思いやりの心があっても,意識が高くても,それらが導く方向が「被害軽減」に対してマイナスに働くことがあるとすれば,それは批判の対象になり得ると筆者は考えます.
防災に関わる取り組みは,たとえどんなに「善意」「おもいやり」にあふれ,「熱意」を持って取り組まれたものであっても,冷静かつ客観的に観察・評価され,必要があれば批判も受けなければならないものだと思います.
2009年,特にここ数ヶ月の筆者は,防災に関わる「善意」とどう向き合うかというテーマに翻弄され,多くのエネルギーを費やした感があります.
筆者の目標は「自然災害による被害軽減を図ること」であり,そのために自らの専門性を背景として,事実を明らかにし,できることに取り組む,というのが基本姿勢です.その姿勢は,今後も守っていきたいものです.