「津波てんでんこ」の「定義」に,「正しい解釈」「間違った解釈」などないでしょう
「震災で人を助けて犠牲となった人の話を道徳教材とすることに対する違和感」の一部で書いていることですが,「津波テンデンコ」というキーワードが固定的な解釈で広まりつつあることにも私は違和感を持っています.
「防災には唯一絶対の正解というものがないことが多い」と,私はよく言っています.いろいろな正解があり,それらの中から何を選択するか,悩むことが多いのが防災というものではないか,と.しかし「正解」をほしがる人がよくいて話に困ることがあります.
「津波てんでんこといっても人を見捨てて逃げられない」と言う人に「いや,そんな風に思わなくていい,家族もきっと逃げているだろうという信頼関係を作っておくことが重要だ」,というのがたぶん片田さん(群馬大学教授)が最近言っている解釈.これには私は全く異論はありません.
ところが,ある講演会で「津波てんでんことはてんでに逃げることだというのは【間違い】だ.家族も逃げているという信頼関係を築くことだと考えるのが【正しい】」とおっしゃる講師がいました.
津波てんでんこの意味は,どこかで「これが正しい」と定義されたわけではありません.「てんでに逃げなければ家族や共同体が崩壊してしまうから,とにかく逃げなければならない」という冷徹な意味合いをもって語られることだってあるでしょう.
「てんでんこ」というのは家族を失ってしまった人に対して,「てんでんこだ,しかたねぇ」といたわる言葉だ,という話を聞いたこともあります.これも私は納得がいきました.
たとえば「大雨が降ってもこの山は絶対崩れない」といった,「明らかな間違い」というのはあり得ます.しかし,防災の場面では「正誤」という単純な評価軸を示すことができないケースが多いと思います.
ああでもない,こうでもない,というのは研究者の嫌われる特性です.しかし,防災の問題について白黒つけたがるところに水を差すのが,自分の役割だと勝手に考えています.ちなみに上記の講師の方には,その場でこの違和感を伝えました.
地域社会の中核だった人,地域の防災を担ってきた人が犠牲になってしまい,災害後のいろいろがうまく回らないといった実例を現在の三陸では見聞きします.防災の最優先事項は人的被害の軽減,そのためには危機管理もいいがまずは事前の対策が重要,と思います.