東日本大震災 私の教訓-嫌われても対策発信
3月11日付け静岡新聞「時評」欄に掲載された筆者の寄稿記事です.ありきたりですが,4年目の3月11日を迎えて思うことを書きました.
読んでいただければわかりますが「嫌われても」とは「お上に疎まれても正しいことを言うのだ」という意味では絶対にありません.私はそういう反体制っぽい思考が大嫌いです.
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東日本大震災 私の教訓-嫌われても対策発信
筆者は4年前の3月11日14時46分を,静岡市内の駐車場に停めた車に乗り込んだところで迎えた.異様に長い揺れに,これは遠方でかなり規模の大きな地震が起きたと思い,ラジオのスイッチを入れた.番組はすでに地震報道に切り替わっており,宮城県で震度7が,さらに大津波警報の宮城県6m,岩手県・福島県で3mが伝えられた.宮城のみとはいえ地震発生直後に「6m」が出たことで,これまで警戒されてきた想定宮城沖地震より大きなものが来たのではと思いつつ車を大学に向けて走らせた.
大学に戻っても最初は状況がよくわからない.しかし15時15分頃だったか,テレビで見覚えのある岩手県釜石市の防潮堤を津波があっさりと乗り越えていくのが見え,想定宮城沖地震どころではない,とてつもない事態が発生しつつあることを悟った.
筆者は静岡へ来る前に岩手県立大に在職しており,その頃からの調査フィールドである岩手県陸前高田市のことが気がかりだった.当初は全く情報が無かったが,12日未明になって同市が津波に飲まれる映像,12日朝にはごく一部の建物しか残存していない同市街地の映像が伝えられた.
災害発生後最初に同市に入ったのが3月29日.海岸から4キロ以上離れた場所から「あらゆるものが流された結果,そんな所から見えるはずがない海が見えた」時の気持ちは忘れられない.同市の震災前2010年の人口は23300人,津波・地震による直接死者と行方不明者は1771人(2013年9月資料)となった.
筆者は震災前,陸前高田市気仙町今泉地区で,住民の防災意識調査,防災ワークショップ,マップ作り,講演などを行っていた.自分が偉そうに防災を語り,「調査」をした地区が大規模な津波に襲われて文字通り壊滅し,この地区だけで数百人規模の犠牲者が生じた.取り返しのつかないことになってしまった.
防災対策は単純明快なものではない.根拠不明なイメージが先行して多くの人が「これはいい」と思っている対策が,実は的外れでかえって被害を誘発しかねないものだった,ということすらある.行政への批判,要求を叫ぶことは簡単だが,そんなことで課題は解決しない.住民や善意の方々に,耳障りな話を説かねばならないことも少なくない.一方で自分が使える時間は有限であり,できない事はできないと明言することも必要だ.自分に何ができるかを考え,嫌がられても言うべきことは言い,されど理想には逃げ込まず現実的解決策を探る.これが私の東日本大震災の教訓である.